新時代の先駆者・平清盛

 日本史のなかで,実際には勝れた人物でありながら,不当に悪者あつかいされてきた人たちがいます。平清盛はその典型です。
 「奢(おご)れる人も久しからず……猛き者も遂には亡びぬ」
 と『平家物語』に書かれたように,清盛は,一族一門だけの栄耀栄華を独占した専制者で,その奢りの果てに滅んだ「悪人」とされてきました。天皇や貴族をないがしろにした不忠者で,南都(奈良)を焼き払った神仏をも恐れぬ罰当たり者のレッテルを貼られ,また源氏の敵役となって憎まれ役を演じさせられました。
 しかし見方を変えれば,清盛は,貴族中心の古代社会を実力で打破し,中世武家社会への幕を開いた偉大な先駆者といえます。伝統と門閥がすべてといっていい古代社会の慣例に,徹底した合理主義と実力主義で立ち向かい,自らの地位を築いたのです。その生き方は,生産力と武力を共に持ちながら久しく貴族の風下に立つことを余儀なくされてきた武士たちに,大いなる希望を与えました。その結果が栄耀栄華なのです。やがて,武士の世が幕を開けることになります。
 ところが,皮肉なことに,武家社会の幕を開けたのは,平氏ではなく源氏でした。歴史は勝者によって創られます。源平合戦に敗れた平氏が,勝者源氏によって貶められたのは,やむをえません。
 清盛は元永元年(1118),平忠盛の長子として生まれました。忠盛は白河法皇に仕えた北面の武士です。母親は祇園女御(ぎおんのにょうご)といわれる女性ですが,忠盛の妻となる前,白河法皇に仕えていました。清盛が,じつは白河法皇の隠し子だという噂が流れたのはそのためです。
 清盛は,度量豊かで誰からも信頼され好意を持たれる人物だったといい,『十訓抄(じっきんしょう)』に次のような話が載っています。「清盛は,召使いの場違いな振舞いや冗談に対し,おかしくなくても笑ってやり,末輩でも人前では立ててやった」と。また後白河上皇と二条天皇の父子が対立すると,双方に気を使い,仲を取りもちました。
 いっぽう清盛は,迷信などを信じない合理主義者でした。干ばつのとき澄憲(ちょうけん)という僧が祈ったとき大雨が降り,人びとが賞讃しました。ですが清盛は,「五月雨(さみだれ)のころになれば日照りも止み雨が降るのは当然のこと。病人も時期がくれば治る。それをたまたまそのときに診察した者を名医ともてはやすのと一緒で,澄憲の手柄というのはばかげている」と笑ったといいます。
 貴族社会の排外主義を排し,兵庫に築港して対宋貿易を開始したのも清盛です。
 頂点に立った清盛が奢ったのは事実ですが,そこに至るまでの努力を見落とすべきではありません。