新田義貞と鎌倉幕府の滅亡

 新田義貞は,足利尊氏と同じく,八幡太郎といわれた源義家の子孫です。義家の子である義国の子の義康の系統が足利氏を称し,同じく義国の子の義重の系統が新田氏となりました。それぞれ,下野国(しもつけのくに)足利(栃木県足利市)と,上野国(こうずけのくに)新田(群馬県太田市)に住んだことにより,地名を姓としたのです。新田氏・足利氏共に清和源氏の嫡流なのですが,新田氏は常に足利氏の下位にありました。
 元弘の乱に際して義貞は,始めは幕府軍に属していて,楠木正成の千早城を攻めていますが,途中で兵を引き上げ,上野に戻ってしまいます。大塔宮護良親王からの令旨(りょうじ)が届いたからでした。大塔宮は,後醍醐天皇の第1皇子です。反幕府の急先鋒となり,新田義貞と結びましたが,足利尊氏と対立し,結局は捕えられて鎌倉に流され,尊氏の弟である足利直義(ただよし)によって殺されました。
 さて,元弘3年(1333)正月,上野に引き上げた新田義貞は,しばらくじっとしています。慎重な性格であったと思われ,中央の情勢を窺っていたのです。渦中にあったのでは,状況を客観視することができません。義貞が動いたのは,5月になってからです。
 足利尊氏が京都の六波羅を滅ぼしたという知らせを知ったからに他なりません。もたもたしていて,時の流れに乗り遅れたら大変です。今,時の流れは,来たるべき新たなる時代に向かってうねり始めています。義貞はすぐさま,倒幕に向けて行動を開始します。
 ところで,当時,情報はどのようにして伝達されていたのでしょうか。凧(たこ)や狼煙(のろし)という方法もありましたが,天候に左右され,詳細を伝えることはできません。ほとんどの情報は,昼夜を問わず,人馬の継ぎ立てによってなされました。もちろん夜は月明りや星明りのある晴れの日に限ります。
 ともあれ,義貞は,上野にありながら,逐一都の情報を得ていたものと思われます。
 義貞はまず,上野国の守護代長崎氏を討ちます。その後軍勢を整えて鎌倉に向かいます。途中,武蔵国府に近い分倍河原(ぶばいがわら)で,幕府軍と戦い,勝利して勢いをつけました。分倍河原は,多摩川の渡河地点で,重要な拠点です。その数日前に,義貞軍は,武蔵国の小手指原(こてさしがはら)の戦闘で幕府軍を破っていました。しかし分倍河原での戦いは,緒戦では敗退しました。その後相模国からの援軍によって勝利したのです。
 こうして5月22日,義貞軍は藤沢から三隊に分かれ,極楽寺の切り通しから,化粧坂(けわいざか)から,そして稲村ヶ崎を干潮を利用して迂回し七里ヶ浜からと,鎌倉に雪崩込んで,鎌倉幕府を滅亡させました。しかし,幕府は滅んだものの,新田義貞は,足利尊氏との主導権争いに敗れ,鎌倉を放棄して京都へと奔(はし)ります。さてどうなるか,次回をお楽しみに。