日本国王となった足利義満

 永和4年(天授元年=1378)・将軍足利義満は,京都の室町に,まばゆいばかりの新邸を築きました。庭には多くの花木が植えられ,四季それぞれに多くの花に彩られたので,人々はその邸を「花の御所」また「花亭」と呼びました。このとき義満は21歳,大いなる野望の出発点です。こののち義満は,室町時代最大にして最強の将軍として,幕政の頂点に君臨し,天皇さえもおびやかします。では,その道のりを辿(たど)ってみることにしましょう。
 義満が揺るぎない権力者となるには,有力な守護大名たちを押さえることと,天皇の伝統的な権威を利用することです。義満は,着々と有力守護を統制していきますが,全国の6分の1の守護職を一族が握るという強大な勢力がありました。山名一族です。ですが義満は,山名家の内紛に乗じ,山名氏を滅ぼし,その支配地の多くを没収することに成功しました。明徳2年(元中8年=1391)のことで,これを明徳の乱といいます。
 山名氏を何とか押さえつけた義満ですが,実はまだ,有力外様の大守護がおりました。大内義弘です。応永4年(1397),義満は京都北山の西園寺公経(きんつね)の廃邸を利用して大豪邸を営みます。その池のほとりに立てられた三層の舎利殿は,全てが金箔におおわれてまばゆく,金閣と称されまました。このとき,多くの守護大名たちが競って人夫を派遣し,名木や奇石を集めて,北山邸の建設につくします。しかし,大内義弘だけは,建設に協力しませんでした。
 結局,両者は衝突することになります。応永6年(1399)9月,不吉の事変を告げる流星が,南の空に現れ,陰陽頭(おんみょうのかみ)土御門有世(つちみかどのありよ)の占いで,90日の兵乱ありと出ました。両軍の衝突があったのは,応永6年11月29日のことで,戦いは1ケ月間続きました。しかし大内義弘が討ち取られて,争乱は収まりました。これが応永の乱です。
 こうして義満の専制化は,一応完成しました。しかし,どのようにして伝統的,絶対的な権威を身につけるか,また将軍としての地位をどのようにして保ち続けるのか,義満は案じます。じつは義満は,大内義弘に手をつけはじめる5年前,わずか9歳の義持(よしもち)に将軍職をゆずり,自らは太政大臣に就きます。ですが応永2年(1395)義満は太政大臣をあっさりやめて出家します。権力者であることをあきらめた訳ではありません。義満は,何と天皇位をうかがうのです。出家の身で天皇は無理ですが,義満は,ひたむきな愛情をそそいでいる二男の義嗣(よしつぐ)を天皇の位につけ,自らは太上天皇となって,将軍と天皇の実権を一手に握ろうとしたのです。応永15年(1408)3月8日,義満は北山邸に,後小松天皇を招きました。そして28日まで,数々の遊宴が繰り広げられたのです。
 北山邸行幸の翌日25日,義嗣は何と内裏で親王元服に準じて元服します。義満の計画は着々と進行していました。ところが,元服式の翌々日,義満は流行病(はやりやまい)にかかり,社寺をあげての祈祷のかいもなく,5日6日,ついに亡くなりました。
 義満は明国への国書に自ら「日本国王」と署名したほどで,まさにそれにふさわしい実力ぶりでしたが,もう一歩というところで,あっけなく世を去ったのでした。