朝倉敏景と文明の乱

 応仁の乱(1467)は,武士たちが大きく飛躍する絶好の機会となりました。主家を追い,新たなる支配者となるという下剋上がまかり通っていきます。朝倉敏景は,主君斯波(しば)氏に代わって,ついに越前(福井県)の守護職(しゅごしき)を手に入れました。
 文明3年(1471)5月21日付けで,朝倉敏景あてに,将軍足利義政から守護任命書が発せられたのです。越前の守護となることは,敏景の宿願でした。守護に成り上がった敏景の得意は,想像に余まりあります。敏景はさっそく,居城を黒丸城から一乗ヶ谷に移します。そこに壮大な館と施設を築き,自ら守護を称し,立烏帽子(たてえぼし)・狩衣(かりぎぬ)といったいでたちで,殿上人(でんじょうびと)に治まりかえったのです。ところが,こうした敏景の態度に,在地の武士たちが反発します。彼らはことごとく敏景に背いてしまうのです。
 そうした勢力の中心にあったのが,もともと朝倉氏と敵対関係にあった甲斐氏です。文明3年7月21日,甲斐方による朝倉勢攻撃の火ぶたが切って落とされました。当初朝倉勢は,兵力が少なかったこともあり,一敗を喫してしまいます。しかしその後盛力を盛り返し,甲斐を中心とする西軍と,敏景を中心とする東軍の,越前一国をかけた死闘が繰り広げられていくことになります。
 文明4年(1472)になると,朝倉方が俄然有利になり,3月には甲斐方の有力な武将の甲斐八郎次郎と甲斐八郎が切腹を余儀なくされます。さらに同8月の戦いでも甲斐方は敗れ,隣国の加賀(石川県)に落ち延びました。その後も戦いは続きますが,結局,朝倉方が勝利したのでした。
 名実共に越前の守護になった朝倉敏景は,文明4年8月,全越前の寺社領などに対して,半済(はんぜい)実施を宣言します。半済というのは,寺社本所領・国衛(こくが)領の年貢の半分を武士に与えるというものです。
 しかし,文明5年(1473)になっても,両者のいざこざは止みません。そうした戦いの中にあっても,朝倉氏の越前支配は着々と進み,ついに朝倉一族が越前全土を支配することになったのです。
 やがて,朝倉氏のために領地をことごとく奪われた荘園領主たちや越前の守護職を奪われた斯波氏の一党らが,甲斐氏と連合して朝倉氏に最後の決戦を挑みました。文明11年(1479)閏(うるう)9月3日のことです。戦いは文明13年(1479)にまで及びました。しかし,斯波・甲斐側はついに敗れ,加賀に逃れることになります。しかし文明13年7月26日,朝倉敏景もはれ物をわずらって亡くなってしまいました。
 結局,越前国守護代朝倉,遠江国守護代甲斐,尾張国守護代織田,主人は斯波義廉(しばよしかど)ということで落ち着きます。しかし,実際には,斯波氏の領国は,朝倉・甲斐・織田の三氏によって奪われ,三氏はそれぞれ新しい時代の支配者である戦国大名として天下を競うことになるのです。