朝鮮通信使,はじめて江戸に来る

 はるか古代から,大陸の先進文化は,朝鮮半島を経由して日本にもたらされました。歴史的にみて概(おおむ)ね,朝鮮半島の方が,日本より文化度が高かったといえます。ただ中世になると,軍事力に関しては,しばしば日本が半島を上回わります。
 これはその間,日本が戦闘国家だったからに他なりません。平安末期の前九年・後三年の役に始まって,保元・平治の乱,源平合戦,文永・弘安の役,南北朝の争乱,そして応仁・文明の乱を経て戦国時代へ突入します。この間,日本はまさに戦争に次ぐ戦争の争乱国家でした。
 やがて,およそ100年を経て織田信長が登場し,戦乱の世は収束します。信長は本能寺の変で横死しますが,その後を受けて,豊臣秀吉が日本統一を果たしました。しかし秀吉は,平和国家日本をつくろうとはせず,何と大陸に攻めて行って明国を支配下に収めようという,とんでもない計画を立ててこれを実行します。文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)のことです。
 文禄の役で秀吉は,16万人もの日本兵を動員し,まずは朝鮮半島に攻め入って,中国との国境に迫ります。しかし朝鮮水軍の李舜臣(りしゅんしん)の反撃を受け撤退を余儀なくされます。ところが日本軍は,朝鮮半島から多くの文物を略奪する共に,農民や学者や陶工などを拉致(らち)してくるのです。慶長の役でも,結局日本は撤退することになりますが,結果として,日本に朱子学や印刷技術の発展がもたらされ,有田焼などの磁器生産が始められることになります。逆に朝鮮では国家の発展が,およそ100年間遅れたといわれます。
 江戸時代になりますと,日本と朝鮮は友好関係となります。徳川家康の求めに応じて,国交が回復したからです。
 朝鮮通信使は,応永20年(1413年)の第1回に始まり,文化8年(1811年)まで20回日本にやって来ました。江戸時代に入ってからは,慶長12年(1607年),2代将軍徳川秀忠のときが最初です。寛永16年(1639年),日本は完全に鎖国体制に入ります。中国・オランダとの「通商」と朝鮮・琉球との「通信」という狭い範囲での国際関係に限定するのです。ですが朝鮮だけは別で,幕府は正式な外交関係を結んでいました。
 朝鮮通信使の一行は,400人前後におよぶ大使節団で,釜山(ぷさん)から対馬を経て,関門海峡から瀬戸内海を大坂に達し,各大名による川船で淀川を遡り,途中から陸路を京都へ入りました。さらに各大名が一行のために新しく作った朝鮮人街道を辿って,東海道を江戸へ進んだのでした。
 幕府は一行を大歓待し,華麗な饗応を行ない,また客館に於て,栄んな彼我の学者や文人の交流が行なわれました。学者や文人や医師たちは,使節の一行との交流によって,新知識を得,また多くの異国の文物が,日本にもたらされたのでした。