東山文化と雪舟の水墨画

東山文化の時代に,和風住宅である書院造という建築様式が起こります。この書院造は,禅寺から始まって将軍の邸宅にとり入れられ,やがて守護大名や上級武士,また公家の邸宅にもとり入れられました。
 まず玄関があって,書院の間があります。この書院の間は畳敷きで,床の間や違い棚がありました。天井も張られ,襖(ふすま)や障子(しょうじ),壁などで部屋がしきられ,その前方に書院庭と呼ばれる庭があります。
 これが次の安土・桃山時代になって大名の居館などに広く採用され,江戸時代になると大商人らの住宅にも用いられました。さらに明治以降も和様建築の基本様式として広く普及し,私たち庶民の住宅にも取り入れられて今日に至っています。住宅様式の違いは,建築史の上だけの問題ではありません。人々の生活も全て畳の上にすわることを基本に組み変えられていくのです。
 襖が立てられることになって,それに絵を描くようになると,これまでの屏風のほかに大画面の絵がおこってきました。これが,雪舟らの水墨画や狩野派の絵を発達させることになったのは,いうまでもありません。
 雪舟が備中国(岡山県)赤浜で生まれたのは応永27年(1420)のことです。ですが家柄ははっきりせず,幼名も判っていません。しかし,それなりの武家に生まれたと思われます。物心つくころには,生家からそう遠くない宝福寺という禅寺に入れられました。口べらしだったのでしょうか。しかし寺に入って絵を描くことを憶え,巧みな筆さばきに皆が感心したということです。
 雪舟はその後,京都相国寺の鹿苑院(ろくおんいん)に移り,洪徳禅師(こうとくぜんじ)に師事します。洪徳禅師は芸術について理解が深く,雪舟にとってさらに幸いなことに,相国寺には水墨画の名匠として名高い如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)がいたことです。絵を描くことが大好きで何とか絵師になりたいと思っていた雪舟にとって,如拙や周文の指導を受けることが出来たことは僥倖でした。
 如拙は,将軍足利義持の命で,有名な「ひょうたんなまず」(作品名は「瓢鮎図(ひょうねんず)」)を描いています。周文も有名な「四季山水図」などを描きました。日本の水墨山水画の大成者である如拙や周文の技法を学び,雪舟は43歳のとき(寛正3年=1462),雪舟等楊(とうよう)と名乗ります。
 その後,45歳のとき,雪舟は山口へ行き,大内教弘の保護を受けます。雪舟はこの地で大陸に渡る機会を待つのです。最早,国内に師とする人はいないからです。応仁元年(1467)その機会が訪れました。雪舟は,大内政弘が,将軍や細川勝元と共に貿易船を明に送ることになり,乗船をゆるされたのです。
 明に上陸した雪舟は,北京に行って技法を学び,天童山に登って首座の役についたり,また多くの大作を描き,3年間滞明して日本に戻りました。しかし技法の上で雪舟が得るものはほとんどありませんでした。雪舟の絵は,明の画家たちをしのぐものでした。とはいえ大陸の風物を自分の目で見たことは,大きな成果でした。
 帰国した雪舟は,応仁の乱をさけて大内氏を頼って山口に行きます。その後,豊後(ぶんご=大分県)に移り,文明13年(1481)には関東を旅して文明18年(1486),67歳のときに周防(すおう=山口)に帰り,代表作といわれる「山水長巻」を描きます。雪舟の名は全国に知られました。しかし雪舟は,中央の画壇に出ようとはせず,87歳の生涯を山口で終えました。