桶狭間の戦い 今川義元対織田信長

 永禄3年5月19日,西暦に換算するならば1560年6月22日,歴史上忘れることのできない大事件が起こりました。駿河・遠江(とおとうみ)の守護大名で,天下人にもなり得た今川義元が,上洛の途次,織田信長の奇襲を受けて殺されたのです。この時点で信長は,まだほとんど無名の存在でした。しかし,以後歴史は,信長を中心に動くことになります。
 今川義元は,まず三河を掌中に収めて,ついで北条氏・武田氏と三国同盟を結び,西上を目指していきます。永禄元年(1558)ごろから,まずは尾張への侵入を開始します。尾張は織田信長の領地です。義元は,笠寺(かさでら)・鳴海(なるみ)・品野(しなの)・大高(おおだか)を前線基地としました。信長もまた城塞を築き防備を固めました。とはいえ,尾張の信長軍は,家臣団の統制も十分ではなく,守勢でした。
 そしてついに義元は,5月12日,上洛の軍を起こし,駿河府中を出陣したのでした。軍勢は4万とも2万5千とも(あるいは1万とも)いいますが,ともあれ1万としても大軍です。17日には,三河の池鯉鮒(ちりふ)に陣し,さらに三河・尾張の国境に進出しました。そして18日,鷲津(わしづ)・丸根を攻撃すると共に,徳川家康に対して,大高城への兵糧入れを命じました。19日,義元自らは本隊を率いて桶狭間方面に進み,桶狭間の北約2キロの田楽狭間(でんがくはざま)に陣取ったのでした。
 いっぽう信長は,清州城で宿老たちと会議を開いていました。この事態にどう対処するか。宿老たちの意見の多くは,守りを固めての籠城戦でした。しかし信長は,宿老たちの意見を斥け,野戦に決し,18日深夜,僅かの手兵を率いて出陣したのでした。翌19日,丸根・鷲津の陥落を知った信長は,善照寺(ぜんしょうじ)の砦に2千の兵を集結させました。さらに相原(あいばら)方面に進出しました。ここで信長は,義元の本隊が,田楽狭間で休止しているという情報を得たのでした。
 桶狭間一帯は丘陵地帯です。ゆるやかな起伏に富み,隘路(あいろ)が続きます。大軍は伸び切り義元の本陣も大した人数ではありません。信長は,ただちに襲撃を決意しました。襲うなら今しかないと。天が信長に味方してくれました。折から驟雨(しゅうう)となるのです。どしゃ降りの雨が,甲冑(かっちゅう)の音や馬の声を消してくれました。信長軍は,その驟雨の中を,今川軍に察知されることなく,義元の本営に迫ることができたのです。そして,雨が止みます。
 雨が止んでほっとした瞬間,義元の本隊は大混乱となりました。信長軍が急襲したからです。今川軍は大混乱となり,3千に及ぶ兵を打ち取られて敗走を余儀なくされました。そして,今川義元もまた,信長軍の一兵卒毛利新介に討ち取られたのです。
 この戦いは,典型的な奇襲戦ですが,たまたま運がよくて信長軍が勝利したわけではありません。地型も,梅雨時の気象条件も,おそらく信長は熟知していたにちがいありません。まさに信長は,勝つべくして勝ったのでした。