楠木正成と千早城の戦い

 鎌倉幕府打倒に燃える後醍醐天皇ですが,元弘元年(1331年)8月,幕府の六波羅の兵に攻められて,山城国の笠置寺(京都府)に逃れます。しかし翌9月,笠置寺も陥落し,後醍醐天皇は捕えられて,10月に三種の神器を光厳天皇に渡します。三種の神器とは,八咫鏡(やたのかがみ),草薙剣(くさなぎのつるぎ),八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)で,古代より天皇家に相伝されたものです。つまり,三種の神器を持たないものは正当な皇統ではないということです。ところが後醍醐天皇はのちに,光明天皇にも神器を渡しますが,渡したものは偽物で,本物は自分が持っている,だから自分が正統な天皇だ,といいますので,話がややこしくなります。
 ともあれ,元弘2年の3月に後醍醐天皇は隠岐に流されますが,その年の11月,第1皇子である護良(もりよし)親王が幕府打倒の挙兵をします。このとき,それに呼応して楠木正成が,自らの拠城千早城で反幕府の兵を挙げます。すぐさま幕府の大軍が千早城を攻め,『太平記』のハイライトともいうべき「千早城の戦い」が展開されることになります。 まずは楠木正成と千早城について見ていくことにしましょう。
 楠木正成は,『太平記』巻五に,こつぜんとして登場します。後醍醐天皇が,南に向かって繁る常盤木の夢を見て,「楠」を姓とする武士を探させ,召し出したというのです。そのとき正成は37歳,まさに働き盛りでした。逆算すると正成の生年は永仁2年(1294年)ということになりますが,正しくは生年不詳です。『太平記』に記された年齢や人数などは当てになりません。
 千早城は,元弘2年に楠木正成が急遽築城した山城で,現在の大阪府南河内郡千早赤阪村にありました。千早川の最上流域に位置し,金剛山に連なる標高630~670メートルの尾根上にありました。周りを深い谷に囲まれた要害で,現在その跡地は国の史跡に指定されています。ちなみに千早城は,『太平記』には「千劔破(千劍破)城」と記されています。筆者の名前「ちはや」は,戸籍上は「千劔破」です。
 さて,千早城に幕府の大軍が押し寄せたのは元弘3年2月のこと。雲霞のごとき軍勢で,その数百万騎,いっぽう守る方は千騎であったといいます。もちろん『太平記』の誇張で,千早城に籠っていたのは数百人,寄せ手が数万人といったところでしょうか。しかし籠城は3ヶ月に及び,ついに幕府軍を撃退したのです。藁人形に甲冑を着せて幕府勢をおびき寄せ,攻め登ってくる軍勢の上から大石や大木を落としたり,油をかけた薪と松明で幕府軍の梯(はしご)を焼き討ちしたりという正成の戦いぶりが伝えられ,「千早城の戦い」として日本の合戦史を彩っています。