正長の土一揆

 上杉禅秀の乱が一段落したころ,諸国の農民の暮らしはどうだったのでしょうか。彼らは,自分たちの生活を守るために,はげしく戦っていました。ひとつは,入会地や用水の確保などをめぐる村同士や家同士の争い,もうひとつは過重な年貢に対する領主との戦いです。
 領主との戦いもいろいろありました。まずは年貢を軽減してくれるよう嘆願する愁訴(しゅうそ),かなり強引な訴えである強訴(ごうそ),はては,領主と共倒れをも辞さない逃散(ちょうさん)などです。逃散は,耕地を放棄して他領へ逃亡することです。
 生活苦にあえいでいたのは農民だけではありません。都市の市民も同様でした。そして,農民や市民を苦しめていたのは,領主からの租税の取り立てばかりではありませんでした。それにも増して苦しめられていたのは,土倉(どそう)・酒屋など高利貸しの存在です。
 土倉は「とくら」ともいい,中世の高利貸し業者のことです。借金のかたで取り上げた物などを収納する土塗りの倉庫を建てていたので「土倉」と呼ばれました。その土倉が酒屋を兼ねている場合も,少なくありませんでした。酒屋で金を借りて酒を買い,高利の借金を取り立てられたのでは,世話はありません。しかし,我も我もと酒を飲み,あげくは借金に苦しめられるという民衆が,この時代には大変多くいました。
 そして,借金を棒引きにせよという徳政一揆が起こることになります。借金に苦しんだ農民や市民たちが団結して,年貢のために領主へ抵抗するばかりではなく,土倉・酒屋などの高利貸しに対して,借金棒引きの徳政を要求して一揆を起こしたのです。この一揆には多くの下層武士たちも加わりました。
 さて,正長(しょうちょう)元年(1428)は,前年から引きつづいて大雨にたたられ,作物ができませんでした。2年つづきの凶作です。そのうえ同年5月を中心に伝染病が大流行します。苦しんだあげく3日ほどで死に至るという恐ろしい病気で,「三日病」と呼ばれました。幕府の高官の中にも死者が出るなどして,社会不安が高まります。
 またこの年の正月には将軍足利義持が死亡しますが,次の将軍が決まらず,候補者の中からクジ引きで決めようということになりました。その結果,義宣(よしのぶ。のちに義教<よしのり>と改名)が第6代将軍となり,4月に応永から正長と改元されました。さらに7月,称光天皇が崩御(ほうぎょ),後花園天皇に代わりました。
 体制も何やらふらふらしています。こうした状況のもと,8月に近江の農民や地侍が,徳政を要求して蜂起します。その動きを待っていたかのように,京都周辺の土民(農民や地侍たち)も立ち上がり,さらに各地に徳政を求める一揆が波及していきました。これが土一揆(つちいっき。どいっき)です。
 やがて土一揆は京都市内にも広がっていきました。さらに奈良でも土一揆が起こり,その一揆は,播磨(はりま。兵庫県)・丹波(たんば。京都府と兵庫県北部)から,伊賀・伊勢(ともに三重県)・吉野(奈良県)・紀伊(和歌山県)・和泉・河内・堺(いずれも大阪府)などに飛び火して,これまでにはない大規模な一揆となりました。これが「正長の土一揆」です。