武田信玄と上杉謙信

 お互いに張り合う存在,すなわち好敵手(ライバル)は,日本史上いつの時代においても少なくありません。ライバルがいてこそ,その時代が生き生きと語られることになるといえるでしょう。天智天皇と天武天皇,弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と藤原仲麻呂,紫式部と清少納言,源頼朝と平清盛,足利尊氏と新田義貞,山名宗全と細川勝元,淀君と北政所,宮本武蔵と佐々木小次郎,西郷隆盛と大久保利通,福沢諭吉と大隈重信等々,枚挙(まいきょ)にいとまがありません。
 なかで武田信玄と上杉謙信は,史上もっともよく知られたライバルといえます。信州川中島は,両雄の決戦の舞台となったところですが,川中島の八幡原(はちまんばら)と呼ばれる小さな林の中に,「三太刀七太刀」の古碑と,馬上から斬りつける謙信,それを軍配で受ける信玄の像が建てられています。
 川中島とは,千曲川と犀川(さいかわ)の合流点付近一帯をいいます。肥沃な穀倉地帯で,東西交通の要衝(ようしょう)でもありました。この地で,天文22年(1553)から永禄7年(1564)にかけて12年間の間に,信玄と謙信は5度戦ったといわれます。
 信玄が支配していた甲斐国(今の山梨県)は,山に囲まれた小国で貧しい国でした。いっぽう信濃(今の長野県)は,大きく豊かな国でした。信玄は信濃に侵出(しんしゅつ)して行きます。まずは諏訪地方を配下に治め,続いて佐久地方を支配することに成功します。そして,北信濃に軍を進めたのでした。
 いっぽうの謙信は,義の人といわれます。北信濃の支配者であった村上義清が,越後の謙信に援けを求めます。そこで謙信は,侵略者信玄を追い,村上義清を援けるために出陣したというわけです。もっとも謙信は,上杉憲政から上杉の名跡(みょうせき)と関東管領職をゆずられ,関東の地を支配する名分を得ていました。ところが,関東と越後の間には信濃がありました。
 信玄は川中島の近くに海津(かいづ)城を築き,着々と北信濃の支配をすすめていました。謙信は信玄の軍を一掃しない限り,関東へは進めません。
 こうして永禄4年(1561)9月,川中島をめぐって両軍が激突することになったのです。9月10日の早朝,妻女山に陣していた上杉軍は,朝霧にまぎれて山を下り,雨宮(あめのみや)の渡しを徒渉(としょう)して,信玄の本陣を突きました。この戦いで謙信は,萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)を着,白布で兜頭をつつみ,月毛の馬を駆って単身武田軍の本陣に斬り込みました。信玄は床几に腰かけたまま,これを待ち受けます。全軍固唾(かたず)を飲んで見守るなか,謙信は,三太刀,七太刀と馬上から信玄に斬りかかり,信玄は鉄の軍配でこれを防いだのでした。『甲陽軍鑑』などに記された,信玄,謙信一騎打の名場面ですが,史実とはいえないでしょう。しかし,戦国史上のライバルを語るとき,欠かせぬエピソードです。