比企氏の乱は北条氏の陰謀か

 源頼朝が没し(1199),その跡を嗣いだのは源頼家です。頼家は,頼朝と正妻北条政子の間に生まれた嫡男で,このとき数え年18歳,当時とすれば立派な大人です。しかし,源家の家督を相続したにも関わらず,頼家は幕府の実権を握ることができませんでした。実権を握ったのは,母の北条政子と政子の父北条時政ら北条一族です。
 母子といっても,政子と頼家の関係は,極めて稀薄です。生みの親より育ての親といいます。頼家の生みの親は政子ですが,育てたのは,比企(ひき)氏の三人の女性たちです。二人は比企の尼の娘,もう一人は比企能員(よしかず)の妻です。頼家の妻となった若狭局(わかさのつぼね)も,比企能員の娘で,頼家は比企一族と固い絆で結ばれた人物なのです。
 比企氏は,鎌倉の比企ヶ谷(ひきがやつ。現在の鎌倉市妙本寺の辺り)に広大な屋敷を構えていた鎌倉幕府最大の実力者です。比企掃部允(かもんのじょう)とその妻が,平治の乱(1159)に敗れて伊豆に配流になった頼朝を,物心両面にわたって20年間支え続けました。なぜかといえば,比企掃部允の妻が,頼朝の乳母(めのと)すなわち育ての親であったからです。掃部允が亡くなった後も,妻は比企の尼と呼ばれ,比企一族を束ねます。
 比企の尼には三人の娘がいました。三人は武蔵や伊豆の有力な武士と結婚します。長女は,惟宗(これむね)広信に嫁し,薩摩島津氏の祖となった島津忠久と,若狭地方に大きな勢力を持った若狭忠季を生み,さらに再婚して安達盛長に嫁して女子を生みます。この女の子は源範頼(のりより。頼朝の弟)に嫁します。二女は河越重頼に嫁し,二人の間に生まれた女子が源義経の妻となります。三女は,伊豆の豪族伊東祐清(すけきよ)に嫁し,その後源氏一族の有力な武将平賀義信と結ばれます。この二女と三女が頼家の乳母です。
 しかし比企家には男子がいません。そこで比企能員を養子にして比企氏を嗣がせ,能員の妻も頼家の乳母となりました。
 頼朝の死は,頼家を擁する比企氏にとって,さらなる態勢固めのチャンスでもありました。ところが,この機をとらえたのは,北条氏でした。いちはやく頼家の親裁を止め,北条氏を中心とする13人の合議による幕府運営を決めてしまったのです。比企一族の後押しもあって,やっと頼家が征夷大将軍位についたのは,頼朝の死から3年半後の1202年のことでした。しかしその後も北条氏中心の政治は変わりません。
 そこで翌年の9月,比企能員は頼家と謀って北条氏を討とうとします。ところがこの計画は北条氏につつ抜けで,逆に比企ヶ谷が北条氏によって襲撃され,能員は殺され,頼家は捕えられてしまいました。これが比企氏の乱です。頼家は伊豆修善寺に幽閉されますが,翌年7月に殺されました。こうして約100年にわたる北条氏全盛の世が幕を開けました。