水戸光圀はなぜ「黄門」なのか

 水戸黄門といえば何といっても,助さん,格さんを連れての諸国漫遊譚が有名です。各地で悪をこらしめ,善行をほどこし,最後に葵(あおい)の印籠(いんろう)をかざして,「ここにおられるのは天下の副将軍水戸のご老公なるぞ」で,一同ハハァーとひれ伏すという,毎度おなじみのワンパターンですが,何とも痛快でおもしろく,人気が高い。
 戦前の映画では,山本嘉一の黄門役に,片岡千恵蔵,阪東妻三郎の助さんと格さんが有名でした。戦後の映画での黄門役は,大河内伝次郎,市川右太衛門,月形竜之助,長谷川一夫,伴淳三郎,森繁久彌,中村鴈治郎,柳家全語楼など錚々(そうそう)たる名優たちが演じています。テレビ時代に入ると,月形竜之助にはじまり,東野英治郎,西村晃,佐野浅夫らが演じて人気を保ってきました。
 もちろん,映画やテレビの水戸黄門像は,史実とはかけ離れたものです。副将軍たる身分の大大名が,一介の百姓の爺さんの恰好をして,ひょこひょこと全国を旅して巡るなどということは,ありえないことです。副将軍というのもウソで,徳川幕府の職制に副将軍などというものはありません。ですけれど後世の民衆は,光圀に自分たちの夢を托して,伝説を創っていったのです。将軍にずけずけものをいう天下の御意見番,高い身分でありながら,庶民の側に下りてきて善政を施す政治家という黄門像を創り上げ,自分たちの味方としたのです。
 さて,光圀は寛永5年(1628)6月,ご三家の一つである水戸藩主徳川頼房の3男として生まれました。頼房は,徳川家康のいちばん末の子(11男)です。つまり光圀は,家康の孫に当たります。
 光圀の幼名は長丸(ちょうまる),のち千代松,9歳のときに元服して,3代将軍家光の「光」の字をもらい,「光国」と名乗りましたが,晩年に「国」を「圀」に改めました。字(あざな)は子竜(しりゅう),号は常山(じょうざん),また梅里(ばいり),隠居してからは西山(せいざん)と号しました。諡(おくりな)は義公(ぎこう)です。
 それが,なぜ「黄門」なのでしょうか。じつは,光圀の位は従三位(じゅさんみ)中納言です。中納言の唐名が黄門ですので,後世「水戸黄門」と通称されるようになったのです。生前に光圀が黄門と称されていたわけではありません。
 少年時代の光圀は,とにかくきかん気のわんぱくであったといいます。7歳のとき,父の頼房が,手討ちにした死罪人の首を持って来れるかと問いますと,屋敷から500メートルも離れた暗い森の中を,ずるずると首を引きずって戻って来たといいます。15,6歳のころには,「かぶき者」を気取った不良少年になり,放蕩無頼のかぎりをつくすのですが,18歳のとき,『史記』の「伯夷伝(はくいでん)」を読んでこれまでの行状を改め,学問に精を出すようになったといいます。このころ光圀が編纂を志した『大日本史』は,何と250年をかけて,明治39年(1906)に完成します。元禄7年(1694)11月,光圀は江戸の幕邸に老中以下幕閣の要人を招いて,能の興行を行ないますが,この席で家臣の一人藤井紋太夫を刺殺します。高慢で奢りがあったからといいますが,若き日の暴れん坊の激しい気性が残っていたのでしょうか。元禄13年(1700),73歳で生涯を終えました。