河越夜戦(よいくさ)後北条氏対扇谷上杉氏

 日本の合戦史上,いや世界の戦史を見ても,夜戦(よいくさ)は極めて少ないですが,満天の星といった気象条件に恵まれれば,夜に軍勢が行動できないことはありません。とはいえ,せいぜい軍を動かすだけで,敵味方入り乱れての戦いは無理です。軍旗や軍配などの司令は,視覚によるもので,夜目では覚つきません。
 ですが,日本の合戦史上,「河越夜戦」はよく知られています。河越は現在の川越です。河越城は,長禄元年(1457),太田道灌の父である太田道真(資清・すけきよ)によって築かれた。道真は扇谷(おうぎがやつ)上杉持頼(もちより)の臣であり,持頼の命による築城です。以後河越城は,武蔵国における扇谷上杉氏の拠点として90年間を過ごします。
 しかし天文6年(1537),扇谷上杉朝定(ともさだ)は,北条氏綱の攻撃を受け,河越城を奪取されてしまいます。その後河越城は,武蔵国における後北条(ごほうじょう)氏の前線基地となりました。なお後北条氏は,鎌倉時代の北条氏とは何の関係もありません。伊勢新九郎長氏(ながうじ・北条早雲)を初代とし,小田原北条氏とも呼ばれます。
 さて天文14年10月,関東管領の山内上杉憲政(のりまさ)は,駿河の今川義元と盟約を結び,河越城奪回のために出陣します。もちろん扇谷上杉朝定との連合軍です。憲政は,関東の諸士に大動員をかけますが,そのためには古河公房足利晴氏(はるうじ)の号令が必要です。晴氏の妻は北条氏です。憲政は強引に晴氏を説得し,関東の連合軍を出動させることに成功したのです。
 連合軍は川越の砂久保(現川越市砂久保)に陣を布き,河越城を包囲しました。しかし城内には北条氏の勇将福島左衛門大夫綱成以下三千の兵が立て籠もり,長陣を布いて頑強に抵抗します。そこで憲政は,兵糧攻めに転じました。川越城を完全包囲して,食料をはじめ物資を城内に搬入させないという戦術です。戦いは半年に及び,同15年4月,北条氏康は,河越城を明け渡すかわりに籠城者たちを赦免してくれるよう,上杉軍に申し出ます。しかし憲政は,この申し出を拒否します。
 北条軍は河越城救援のために出陣しますが,あくまでも和を乞うためという態度を崩しませんでした。しかしこれは,上杉軍を油断させるための作戦でした。4月20日の夜のことです。現在なら5月下旬,初夏です。北条勢は,救護部隊と城内に籠城する兵が連絡を取り合い,突如夜襲をかけて,上杉軍を壊滅させてしまうのでした。夜とはいえ,おそらく満天の星で,夜であってもよく見えたと思われます。当時の人であれば,今の我々とちがい,かなり夜目がきいたにちがいありません。しかも夜襲をかけるため,夜目を馴らしての襲撃であったにちがいありません。上杉軍は決定的な敗北を被ることになります。これが関東の戦国史に名高い「河越夜戦」です。こののち上杉氏は越後に逃れ,守護代長尾景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲ることになるのです。