源実朝暗殺の謎

 鎌倉幕府の3代将軍実朝が暗殺されたのは,承久元年(1219)正月27日の夜のことです。実朝はこのとき27歳。犯人は実朝の甥で18歳の公暁(くぎょう)でした。
 公暁の父は2代将軍頼家。頼家は頼朝の次男で,実朝の兄です。公暁は,鶴岡八幡宮の別当阿闍梨(あじゃり)でしたが,「悪禅師」と称された乱暴者でした。このとき,実朝の供である源仲章(なかあきら)も斬り殺しています。公暁がなぜ実朝を討ったのかといえば,叔父の実朝を,亡父頼実の敵と信じていたからです。
 惨劇のあった正月27日の夕刻,将軍実朝は,前年12月に正二位右大臣に任じられたことの参賀のため,鶴岡八幡宮を訪れたのでした。ところが,儀式を終え,実朝が八幡宮の石段を下っていたとき,銀杏(いちょう)の大樹の陰に隠れていた公暁が,やにわに実朝を斬り殺して首を奪い,夕闇の中に逃亡したのです。その夜大雪が降り,二尺あまり(約60センチ以上)積もったといいます。
 ところで,2代将軍頼家を殺したのは,実朝ではありません。比企(ひき)一族を攻め亡ぼし,頼家を伊豆の修禅寺に幽閉して殺したのは,北条時政です。時政の娘政子と,政子の弟の義時もからんでいたことは,まちがいありません。このとき公暁は,4歳の幼児でした。父頼家の死の真相が解るはずはありません。
 しかし公暁が,「亡父の仇(かたき)」として実朝を暗殺したのは事実です。誰かが,「頼家を殺したのは実朝だ」と公暁に思い込ませ,暗殺をそそのかしたのです。
 では,実朝暗殺の黒幕は誰なのでしょうか。ずばり,頼家のときと同様に北条氏である,という説があります。確かに,実朝の死によって源氏の正統は途絶えてしまいます。犯人の公暁を捕まえて殺したのは,北条義時です。以後北条氏は,執権政治の地盤を固め,専制体制を整えていき,覇権を確立します。こうした流れから見ると,北条氏を実朝暗殺の黒幕と見るのは,妥当と思えます。
 ですが,これは結果論です。実朝は,粗暴であった兄頼家とちがって,和歌の道に秀でた文学青年です。北条政子に偏愛されて育ちました。頼朝の血をひき,思いのままになる実朝を,北条氏があえて殺害しなければならない必然性は,見当たりません。
 そこで,浮かび上ってくるのが,三浦一族です。北条氏の対抗勢力だった三浦氏は,やはり源氏の嫡流を立てて覇権を確立しようと狙っていました。頼実の子である公暁の乳母(めのと)は,三浦一族の統領三浦義村の妻です。そこで義村は,実朝と共に北条氏を亡ぼし,覇権を握ろうとした,というのです。しかし義村は,北条義時に内通し,公暁を殺してしまいます。まさに,事件の真相は藪の中,ということになります。