火事と喧嘩は江戸の華

 古代から,日本は火事の多い国です。日本の家屋は,石造や土造ではなく木造ですので,やむをえません。江戸時代も各地で火災は起きましたが,中でも江戸は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように,江戸名物に数えられたほどです。これは,江戸の下町に燃えやすい民家が密集していたことと,冬期に強い北西の空っ風が吹いたからです。
 江戸っ子は気が短かく,何かというと「てやんでぇ」「べらぼうめ」と喧嘩になります。もっとも,その場かぎりで翌日には,けろっとしているのが江戸っ子です。日常ひんぱんにあった喧嘩と同じぐらい,火事も多く,何百軒あるいは何千軒もが焼けるという大火も八十数回に及んでいます。
 江戸の町の大半が焼け,何千人あるいは何万人もの死者が出るという大火災も少なからずありました。「振袖火事」の名で知られる明暦の大火(1657年)では,何と十万二千人もの死者が出ました。「八百屋お七の火事」として知られる天和の火事(1682年)では,三千五百余人が焼死しています。また,元禄十六年の「水戸様火事」(1703年),享保六年の大火(1721年),明和九年の「行人坂火事」(1772年),文化三年の「丙寅(ひのえとら)の大火」(1806年),天保五年の「甲午の大火」(1834年),安政の大地震による大火(1855年)などで,いずれも数千人に及ぶ焼死者を出しています。
 火事の原因の多くは火の不始末ですが,放火も少なからずありました。放火の罪は重く,死罪のうちで最も残酷な火刑です。生きたまま火で焼き殺すという刑罰で,八百屋お七が火刑に処せられたことは有名です。
 火事を消すのは火消しの役割りです。しかし,江戸時代に強力な放水車などありません。火消しの役割りは,もっぱら,周囲の風下の家を壊して延焼を防ぐことでした。町火消しは,鳶口(とびくち)を持って家を壊すので鳶の者といわれましたが,彼らは容赦なく多くの家を次々に壊しました。
 町火消しの制度を定めたのは,江戸町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)で,享保年間(1716~36年)のことです。二十町ごとに四十七の小組に分け,いろは四十七文字を組の名としました。ですが,「へ」「ら」「ひ」の三字は,語感がよくないというので省かれ,代わりに「百」「千」「万」を使用しました。その後本組が設けられて,町火消しは四十八組になります。
 なお火消しには他に,大名火消しと定火消しがありました。大名火消しは,幕府の命で各大名が一万石につき三十人の人足を雇ってつくられ,主に武家屋敷の消火,ことに江戸域に火が移らないよう,破壊消火活動をしました。定火消しは,明暦の大火後につくられ,旗本がこの任に当たり,人足たちは臥烟(がえん)と呼ばれました。