猿楽能と音阿弥と能面

 応仁の乱を三年後にひかえた寛正5年(1464)4月,京都勧進猿楽能が,京都の糺(ただす)河原で開かれました。桟敷(さじき)には,将軍足利義政と夫人の日野富子,山名宗全や細川勝元ら錚々たる者たちや諸大名,また一般の見物桟敷や立ち見席まで多くの人で埋まりました。
 4月5日の初日,能の出し物が次々に進み,その合い間には狂言が演じられていきます。やがて番組は「三井寺」にいたり,名人音阿弥(おんあみ)らの芸が観衆の心をとらえます。内容は次のようなものです。
 「京都の清水観音に,一人の狂女がぬかずいていました。彼女は一子千満(せんまん)を人さらいにさらわれて気を狂わせてしまうが,なお子供の行方を追っています。清水観音にひたむきに祈る彼女に,三井寺に行けばさがす子に会える,という霊夢がありました。彼女は狂った心のまま,よろこび勇んで三井寺へと向かいます。すると三井寺では一人の僧が,稚子(ちご)を連れて十五夜の月を眺めていました。彼女は月光と鐘(かね)に魅せられ,狂ったように鐘を打ち鳴らし続けます。僧は止めようとしますが彼女は聞き入れず,笑い興じて鐘を打ちつづけました。かたわらの稚子は,その狂女が自分の母であると気づきます。稚子は千満でした。やがて二人は抱き合って泣き続けます。やがて正気にもどった母は,千満とともに故郷に帰り,やがてその家は富み栄えたということです」
 こうした能楽の世界は,観阿弥なきあと音阿弥らによって興隆します。ことに世阿弥の女婿である禅竹らによって栄えました。しかし,多くの名手や作家を生みながら,応仁の乱を境に能楽は一時没落していきます。幕府の権威が失墜し,最大の保護者を失ったからですが,しかし能楽は,大名や武士,一般庶民の広い支持を得て復活していきます。
 能と能との幕間に演ぜられる狂言は,初期猿楽の滑稽,ユーモアを伝えるもので,民衆に受け入れられていきます。勧進猿楽に群衆した民衆にとって,能よりもむしろ狂言の方が魅力であったと思われます。
 ともあれ狂言が庶民に選ばれるようになった根底には,南北朝期以来の民衆の台頭と,応仁の乱のころから一段と高まった下剋上(げこくじょう)の風潮にあることは否定できません。
 また,能面が能楽で果たした役割は,大きいものでした。滑稽やユーモアを表現した狂言の面も同様です。いま私たちが見ても,傑作は趣が少なくありません。