由比正雪と丸橋忠弥の慶安事件

 江戸時代前期の慶安4年(1651年)7月,由比(由井)正雪,丸橋忠弥,加藤市郎右衛門,金井半兵衛らを主謀者とする牢人(浪人)たちの反乱計画が露顕しました。慶安の変,由比正雪の乱ともいいます。
 関ヶ原の戦いの後,徳川幕府が成立しますが,幕府は多くの外様大名を改易したり減封したりしました。そのため主家を失った武士,すなわち牢人が多数発生するということになりました。太平の世になったため,武士としての士官は思うにまかせず,鎖国となって,海外へ雄飛する道も閉ざされ,彼らの生活は大いに困窮することになったのです。
 当時,軍学者として名を知られていた由比正雪は,士官の周旋を望む牢人たちを数多く集めていました。そんなとき,三河刈谷(かりや)藩主の松平定政が,上書(じょうしょ)して幕政を正そうとしたのですが,改易されてします。慶安4年7月18日のことです。世上,幕閣の不統一が喧伝され,政局は不安定な状況となりました。正雪にとっては,まさに好機到来です。正雪は彼らと語らって,叛乱を起こしたのです。
 江戸では,丸橋忠弥を指揮官として,江戸の各所に火を放って火の海と化し,その騒ぎに乗じて江戸城内に侵入し,将軍を奪って正雪らの拠る駿河の久能山(静岡市)に急行する。佐原重兵衛,長山兵右衛門の率いる一隊は,譜代大名の屋敷に火薬を投じて乱入,柴原又右衛門の率いる一隊は鉄砲三百梃を用意し,将軍を奪った忠弥らを追撃する兵を喰い止める。また京都では,加藤市郎右衛門,吉田初右衛門を指揮官に,江戸からの吉報を待って同様の手段で二条城を乗っ取り,大坂では金井半兵衛,石橋源右衛門を指揮官に,正雪からの報らせを待って市中各所に火を放ち,諸大名の蔵屋敷を急襲して米穀を奪い,大坂城に立て籠る。正雪自身は,久能山の金銀を奪って,駿府城を攻略し,将軍を擁立して天下に号令する。以上が正雪の計略でした。
 正雪は,3千人あるいは5千人の兵を集めたといいますが,7月23日の夜に,数人が訴人したことによって計画は露顕し,失敗に終わってしまいます。
 幕府は,すぐさま正雪追捕の使者を駿府に急派すると共に,南北両町奉行所の与力・同心と捕り方を差し向けて,忠弥とその一味を召し捕りました。そして,7月26日,駿府茶町(静岡市)の旅宿に,紀州家の家中と称して宿泊していた正雪以下を取り囲んだのです。しかし,一味の多くは自刃して果てました。7月30日,正雪は,改めて駿府で獄門にかけられ,8月10日には,忠弥以下35人ほどが江戸の鈴ヶ森(東京都品川)で処刑されました。9月18日には,正雪の親族らが集められ,駿府で,磔刑もしくは斬首されて,事件は落着をみたのでした。
 正雪の乱の目的は,正雪自身による幕政改革説,林羅山によるキリシタン説,また近代以降は牢人救済説等があります。この事件以降,幕府は,牢人の発生源である大名家の改易や減封に手心を加えていきます。その結果,大名・旗本の改易や減封は激減し,牢人問題も落ちついていったのです。この事件はまた,武断から文治へと幕政が転換する端緒ともなり,政治史上の画期的な事件となったのでした。