義経ジンギスカン説を追う

 洋の東西を問わず,英雄には「不死伝説」がつきものです。英雄には様々な定義がありますが,ここでいう英雄は,志半ばにして不慮の死をとげた武人のことです。伝説に彩られていることも「英雄の条件」の一つかも知れません。不死伝説は,「もし生きていれば」という後世の人々の願望から生まれた場合が多いのですが,時の権力がその伝説を利用したり,意図的に尾鰭をつけたりしたことも,少なくありません。尾鰭をつけるのは,講釈師や作家であったりもします。
 さて,源義経は,日本史上の英雄のなかで,最も多くの伝説に彩られた人物です。とくに,不死伝説は多彩です。
 義経は,文治5年(1189)に奥州平泉で,庇護者であったはずの藤原泰衡に攻められ,30年の生涯を閉じたとされています。戦いに勝った際には,必ず敵将の首を取り,討ち果たしたことを確認します。だが泰衡は,義経の首を取ることができませんでした。義経が館に火をかけて自刃したからです。そのため,死なずに逃れたという伝説が,早くから生じました。平泉の近くに竜泉洞と呼ばれる鐘乳洞があります。入り組んだ内部は奥深く,いまだに全容が判らないほどですが,義経はこの地下洞窟を通って蝦夷地(北海道)に逃げたというのです。
 江戸時代になってこの伝説に,尾鰭がつきます。義経がアイヌの伝説の英雄オキクルミになったというものです。日高の平取に今も義経神社がありますが,こうした伝説や神社は,徳川幕府が,「和人」による「アイヌ」支配を正当化するために作ったものでしょう。
 明治時代になると義経伝説は俄然スケールを巨大化させます。何とジンギスカンになった,というのです。ジンギスカンすなわちテムジンが蒙古統一のための活動を開始したのは1194年ですが,平泉で義経が死んだとされる1189年から5年後のことで,テムジンの前半生は,はっきりしません。そこでテムジンは「天神」,母のイケ・センジは「池禅尼」,源義経の音読み「ゲン ギケイ」が訛って「ジンギスカン」になった,などという説が流布することになります。日清・日露戦争を経て,日本がアジアの覇者たらんとした時期と,義経=ジンギスカン説は一致します。
 さらに昭和の戦後になって,作家の高木彬光が面白い説を『成吉思汗の秘密』という小説にまとめます。『元朝秘史』に記されたジンギスカンの漢字表記「成吉思汗」を,漢文読みにし,「吉成リテ水干ヲ思ウ」と読むのです。「汗」の字を分けると「水干」になりますが,水干(すいかん)は白拍子の衣装のこと,すなわち静御前であると。「成吉思汗」を万葉仮名風に「なすよしもがな」と読んで,静御前が義経を偲んで詠んだという「昔を今になすよしもがな」の歌にかけたりします。さて,皆さんも珍説を考えてみませんか。