芭蕉「奥の細道」の旅に出る

 芭蕉が門人の河合曾良(かわいそら)を伴って,「奥の細道」の旅に出発したのは,元禄2年3月27日(現行暦では1689年5月16日)のことでした。すでに郭公(カッコウ)や時鳥(ホトトギス)の初音(はつね)も聞かれ,蛙の大合唱なども聞こえたことでしょう。
 旅の第一日目,芭蕉と曾良は,隅田川を船で遡って千住(せんじゅ)に上陸し,日光街道を辿(たど)って草加(そうか。今の埼玉県草加市)へと行きました。「奥の細道」の旅は,千住で船を上がるところから始まり,美濃大垣(今の岐阜県大垣市)で船に乗るところで終わります。つい見過ごされがちですが,江戸時代の旅は,川船を利用することが少なくありませんでした。
 「その日やうやう草加といふ宿(しゅく)にたどり着きにけり。痩骨(そうこつ)の肩にかかれる物,まづ苦しむ。ただ身すがらにと出て立ちはべるを,紙子一衣(かみこいちえ)は夜の防ぎ,浴衣,雨具,墨,筆のたぐひ,あるひはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは,さすがにうち捨てがたく,路次の煩(わずら)ひとなれることわりなけれ」
 身一つで旅に出ようと思ったのに,なんだかんだ餞別まで含めて荷が増え,痩せた肩に重荷が食い込んで音(ね)を上げつつ,どうにか,草加の宿に辿り着いたというのです。痩身の老翁が,重荷にあえぎ,やっとの思いで旅の第一日目を終えた様子が彷彿とします。
 ですが,だまされてはいけません。芭蕉はこのとき満45歳,心身共に充実した壮年です。芭蕉は「奥の細道」に,「呉天(ごてん。遠い異郷の地)に白髪の憾(うら)みを重ぬといへども,耳に触れていまだ目に見えぬ境,もし生きて帰らば,と定めなき頼みの末をかけ」云々などと記し,いかにも年老いて悲壮な決意のもとに旅立った風を装っていますが,それはあくまでも俳人としての文学上の表現なのです。千住から草加まで二里八丁,9キロ弱しかありません。それぐらいで音を上げていては,江戸時代の旅はおぼつきません。
 徒歩が基本の江戸期の旅では,女性でも1日30キロメートルぐらいは歩きました。芭蕉も結構健脚で,時には40キロメートルぐらいを平気で歩き通しています。事実この日も,曾良の日記によれば,泊まったのは草加ではなく,さらに4里10丁(約17キロ)先の粕壁(かすかべ。現在の春日部市)でした。
 芭蕉は,関東と関西の間は何度も往来していて,信州や中部地方にも足を運んでいました。ですけれど,芭蕉の胸中には常に,「北への憧れ」があったと思われます。いつの日か,かつて能因(のういん)法師や西行(さいぎょう)も辿った東北地方や北陸の地を彷徨(ほうこう)したい。その思いが叶(かな)ったのが,「奥の細道」の旅だったのです。日光や那須野を経て,白河の関を越え,いよいよ陸奥(みちのく)への第一歩をしるしたのは,4月20日のことでした。
 いま,4月20日ごろの白河の関跡を訪ねると,ピンクのカタクリの花と真白いアズマイチゲの群落が,芽吹き始めた林の下一面を彩って美しい。もっとも芭蕉が訪れた4月20日は,現在の太陽暦では6月7日です。卯(う)の花の盛りでした。