東山文化で,茶の湯と並んで成立したものに「花道」があります。花を飾る文化は,奈良時代からありました。仏教伝来に伴い,仏前に花を供える「供花(くげ)」です。
鎌倉時代になると,花瓶に花を立てる「立て花」が現れます。やがて寺院の僧侶や時衆の僧たちのなかで,立て花に長じた者たちが現れ,家業とするようになります。池坊(いけのぼう)などです。
池坊というのは,本来は京都の六角堂(頂法寺=ちょうほうじ)の塔頭(たっちゅう)の名です。この池坊の執行(しぎょう)であった専慶(せんけい)は,立て花をよくし,長禄~寛正(1457~66)のころ,同朋衆(どうぼうしゅう)として将軍足利義政に仕えました。やがて天文年間(1532~55)に至って,池坊専応(せんおう)が立花(りっか)を大成し,池坊は花道の家元として現代まで続くことになります。
室町時代,立て花を盛行させたのは,お盆の行事である七夕(たなばた)の花会(はなえ)です。この日,公家や有力な地下人(じげにん)たちは,花座敷と呼ばれる有力貴族の家に,花瓶と草花を持ち寄りました。この時代の花は野の花です。花座敷では,和歌や連歌や茶の湯の会などが行われ,立てられた花と花瓶は,人びとに鑑賞されました。しかしこの時代の立て花は,花よりもむしろ豪華な花瓶の方に関心が強かったようです。
応仁の乱のころ,殿中の連歌会などでは,豪壮な花が立てられたといいます。立派な花瓶に花々を大きく盛り立てたのでしょう。寛正3年(1462)二月,池坊専慶は,ばさら大名佐々木道誉(どうよ)の息子佐々木高秀に招かれて,金の花瓶に草花を数十枝立てたので,洛中の好事者たちが競って見物したといいます。またこの年の十月,同じく高秀が専慶に菊を挿させたところ,諸僧は皆その妙なる様(さま)に感嘆したということです。
豪華に花を飾るという文化とは別に,ささやかに部屋の一隅を飾る文化も生じます。これは,書院造が発達し,床の間や違い棚などに花を立てるようになったからです。
書院の立て花の名手とされたのが立阿弥(りゅうあみ)です。代々立阿弥を称しましたが,足利義政の時代の立阿弥が,もっとも著名です。また相阿弥は,『花譜(花伝書)』を著わしたことで有名です。そして,池坊専慶の登場となるわけです。
立て花が立花といわれる芸術に発展し,ほぼ完成したのは,安土桃山時代。さらに江戸時代の初期,立て花を好んだ後水尾天皇の庇護のもとに,池坊専好(二代目)によって完成されたといわれます。
こうした立て花に対して,花道にはもう一つの系統があります。室町後期,形式を定めず自由な形で花を飾る「抛入花(なげいればな)」が登場し,安土桃山時代に茶の湯と結びついて,生け花となっていくのです。茶会の席にさり気なく飾る花,形式を定めず自由に生ける「茶花」は,千利休によって確かな地位を得ます。
やがて江戸時代の元禄年間に至り,町人の間にも立て花と共に茶の湯が流行し,形式にとらわれず自由な抛入花である茶花が,茶席と切り離されて,日常の座敷を飾る生け花として独立していくのです。そして江戸中期以降,多くの流派が成立して花道(華道)として定着していきました。
2022.6.17