木曾義仲は,治承・寿永の争乱(源平合戦)で華々しい活躍をし,平家全盛の世をひっくり返した。義仲の存在がなければ,平家があれほど早く滅亡への道をたどることはなかったであろう。
だが,平家を逐って都を占拠し,旭将軍と称えられた義仲の栄光は,一瞬でしかなかった。源頼朝の意を受けた源義経に攻められ,悲劇的な最期をとげた。義経も,結局は頼朝によって非業の死をとげるが,死後,国民的なヒーローとなって,いまもその人気は衰えない。
いっぽう木曾義仲は,たぐいまれなる武将であり,志なかばにして悲劇的な死をとげるという英雄の条件を有しながら,義経人気の陰にかくれて,英雄視されることはなかった。『大日本史』などは,木曾義仲を,「叛臣伝(はんしんでん)」に載せているほどである。
徳川光圀にはじまる水戸徳川家編纂の『大日本史』は,皇国史観に貫かれたものであり,後白河法皇を一時幽閉した義仲を悪しざまに書いたのはやむをえない。しかし,朝廷と対立し,天皇や上皇をないがしろにして思うがままに振る舞った権力者は少なくない。義仲一人非難されるには当たらない。
義仲の場合,義経に攻め殺されたことが英雄たりえなかった最大の理由であろう。義経を源平合戦最大の英雄とするとき,義仲は悪役にならざるをえないのだ。『平家物語』や『源平盛衰記』は,必ずしも義仲を悪人として描いているわけではない。むしろ悲運,悲劇の武将として,同情をもって語っている。だが都を占領して後白河法皇と対立するまでの描き方がよくない。教養のない粗野な人物で,人望もなく「将軍」にはふさわしくない武将としている。
だが義仲の実像は,じつは不明な点が多く,ことに寿永二年(1183)の入洛以前は根本史料を欠き,詳かでない。義仲の生涯を語ろうとすれば,『平家物語』や『源平盛衰記』に頼らざるをえないが,これらはあくまでも文学作品である。史実を背景とした物語とはいえ,そこで述べられていることが史実の証明とはならない。
義仲は,久寿元年(1154)に源義賢(みなものとのよしかた)の子として,武蔵国で生まれたとされる。父の義賢は,帯刀先生(たてわきせんじょう)と通称された人物で,源義朝の異母弟にあたる。義朝は頼朝や義経の父だ。義賢は上野国(群馬県)多胡郡と武蔵国(埼玉県・東京都)比企郡に勢力を持ち,比企郡大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)に館を構えていた。義仲はこの辺りで生まれたといい,嵐山町の鎌形神社の湧水が,「義仲産湯の井」と伝えられている。二歳のとき義賢が,義朝の長子義平(頼朝の兄)に殺され,義仲は斎藤別当実盛に抱かれて木曾山中に落ちのびて成人することになる。
2022.6.17