蒙古襲来,文永・弘安の役

 「元寇(げんこう)」ともいいますが,歴史用語としては「文永・弘安の役」です。「神風」が二度にわたって,蒙古(元)軍の襲来から日本を守った歴史上の出来事として,知られています。
 朝鮮半島の高麗(こうらい)を征服した蒙古(元)のフビライは,文永5年以降たびたび日本に使者を送り,服属を迫りますが,鎌倉幕府はことごとくこれを拒否します。1274年(文永11年)正月,フビライは高麗に対して900艘の造船を命じ,その年の秋には,元と高麗連合の大船団が編制されました。日本はその大船団によって,史上初めて,外国からの軍事的侵略をうけることになります。
文永11年10月20日,連合軍は,博多に上陸しました。この日,博多湾沿岸の各地で激戦が展開されましたが,日本軍は防戦一方でした。夜になり,連合軍は船に引き上げます。日本軍にとっては,翌日が正念場です。
 ところが翌朝,湾内を埋めつくしていた大船団は,あとかたもなくその姿を消していました。夜中に大暴風雨が吹き荒れ,200余艘が沈没,残る船団も多くが破損し,すべて撤退したのです。台風の季節ではありませんが,発達した低気圧が通過したものと思われます。急造のバランスの悪い船だったにちがいありません。大時化(おおしけ)にひとたまりもなかったのでしょう。
 ともかく日本は,大きな危機を乗り切りました。ところが,7年後の弘安4年(1281年)の5月,再び元軍が押し寄せてきたのです。しかも,高麗の合浦(ガッポ)から出発した兵4万,船900艘,中国の寧波(ニンポウ)から船出した本隊の兵10万,船3500艘と,前回とは比較にならない大軍団です。
 しかし,今回は日本軍も頑張ります。元軍を上陸させないのです。そして,閏(うるう)7月1日,再び元の大軍は大暴風によって海に沈み,残された船も算を乱して敗走しました。この日は現行暦に換算すると8月23日に当たります。おそらくこの日,大型の台風が北九州を通過したのだと思われます。20年後の正安3年(1301年)にも,200艘を超える船団が現われましたが,大風が吹いていなくなったといいます。
 こうしたことがあって,やがて神国思想が起こります。日本は神の州(くに)であり,いざというときには神風が困難を救うという,「神州不滅」思想です。
昭和19年(1944年)10月,敗戦が濃厚となった日本は,自ら神風を吹かせようとして,神風(じんぷう)特別攻撃隊を編制します。いわゆる神風(かみかぜ)特攻隊です。片道だけの燃料しか積まずに出撃し,敵艦に機体もろとも体当たりして自爆するという決死隊です。しかしこのような無謀な戦法で戦局が好転するはずはありません。成功率は,わずか16.5パーセント。結局日本は,無条件全面降伏して,敗戦を迎えることになります。