護良親王と中先代の乱

 護良(もりよし)親王が,後醍醐天皇によって鎌倉に流されたのは,建武元年(1334)11月のことです。翌建武2年,世情が次第に騒がしくなっていき,7月には北条時行(ときゆき)が信濃で挙兵します。時行は北条高時の遺児です。
 その時行が「中先代」です。高時までが「先代」で足利尊氏以後を「後代」といい,ちょうどその中間に位置する時行が「中先代」というわけです。
 中先代時行の軍勢は,信濃守護の小笠原氏の軍勢を破り,武蔵国に突入,さらに相模国に入って鎌倉に迫りました。そのとき鎌倉を治めていたのは,後醍醐天皇の皇子成良(なりなが)親王をいただいていた足利直義(ただよし)です。しかし直義軍は,たちまち時行の軍勢に敗れて,鎌倉は4年ぶりに北条氏の手に落ちてしまいました。護良親王が殺されたのは,このときのことです。
 『太平記』によれば,直義は鎌倉を落ちのびるとき,「いつ敵にまわるかもしれない宮を生かしておくわけにはいかない。すぐに引き返して宮を刺し殺せよ」と家来に命じ,その家来が薬師堂に取って返して土牢に近づくと,親王はいちはやく察して立ち向かってきた。しかし土牢に坐わり続けていたので足がいうことをきかず,激しく抵抗したもののついに力尽きて殺されてしまった…といい,現在その土牢が史跡となっています。
 もちろんこうした話は,『太平記』の創作です。ですが,建武2年に北条時行が鎌倉を攻めたとき,足利直義が淵辺義博に命じて護良親王を殺させたのは,史実です。
 新政府は,こうした状況におどろいて8月1日,成良親王を征夷大将軍として,北条時行らの追討を命じました。ところが,8月2日,足利尊氏が自ら征東将軍と名乗って,京都を出発し,東国を目指します。
 なお鎌倉を逃れた足利直義の軍勢は,三河国の矢矧(やはぎ。愛知県岡崎市矢作町)まで行って留まり,成良親王はそのまま京都まで帰りました。
 さて,足利尊氏はこれまでたびたび,後醍醐天皇に対して,征夷大将軍と諸国総追捕使(ついぶし)に任命してほしいと,要求してきました。しかし後醍醐帝は,首を縦にふりません。しびれを切らした尊氏はついに,自ら征東将軍と名乗って出陣したのでした。
 足利尊氏は,直義の軍勢と合流して,鎌倉へと兵を進めます。そして,8月18日には時行の軍勢を相模川で破り,たちまち鎌倉を鎮圧しました。時行が鎌倉を制圧していたのは,わずか20日間です。そのため「二十日先代」ともいわれます。この乱が,「中先代の乱」です。
 ところで,中先代北条時行は,その後どうなったのでしょうか。その後も時行は,尊氏と戦い続けますが,結局1352年(正平7年,文和元年)尊氏に捕えられ,翌年5月,鎌倉の瀧ノ口で処刑されて,波瀾の生涯を終えました。年齢は不詳です。