足利尊氏と六波羅の滅亡

 足利尊氏は,室町幕府の初代将軍,すなわち室町時代の幕を明けた,日本史上の重要人物の一人です。ですが,鎌倉幕府の初代将軍源頼朝,江戸時代を開いた徳川家康に比して,いまひとつ人気に欠けます。これは,尊氏という人物が魅力に乏しかったというわけではありません。室町時代が,鎌倉時代や江戸時代に比して,インパクトに欠けていたからです。応仁・文明の乱から,織田信長が室町幕府を滅ぼすまでも室町時代なのですが,この時代は戦国時代と通称されていて,室町時代という概念からは,ちょっとはずれます。
 なお,室町時代というのは,足利将軍家の邸宅(室町殿)が,京都の室町にあったことによります。花の御所ともいわれた室町殿は,足利三代将軍義満が造営したものですが,のちに「室町」は,足利将軍の時代(15代,約230年間)を指すことになります。義満は,足利15代将軍の中で,最大最強の将軍です。
 さて足利尊氏ですが,生まれたのは嘉元3年(1305)です。この年の3月と4月に,京都と鎌倉で大地震がありました。足利氏は,清和源氏の嫡流で,尊氏の初名は高氏です。清和源氏嫡流ということは,幕府のトップ,将軍になり得る家柄ですが,このころは,平氏の一族である北条氏が,執権として幕府の全権を握っていました。北条幕府の,京都における長官が六波羅探題で,その役所があったのが六波羅(京都市東山区)です。
 元弘元年(1331),後醍醐天皇によるクーデター・元弘の乱が起こると,高氏は,執権北条高時の命で畿内に出陣し,笠置山(かさぎやま)に籠った後醍醐天皇を攻めました。しかしこのとき,高氏は,北条氏の処遇に深い憤りを覚え,北条氏打倒の決意を抱いたのだといいます。後醍醐天皇は,隠岐島に流されてしまいました。しかし元弘3年,天皇は隠岐を脱出します。
 高氏は再び幕命により西上します。ですがその途中,密使を送って後醍醐帝に味方することを伝え,丹波の篠村八幡(京都府亀岡市)で倒幕の兵を挙げるのです。このとき,諸国の豪族に密書を送って,決起を呼びかけています。そして自らは京都に攻め入って,六波羅探題を滅ぼしました。関東では新田義貞が上野(こうずけ)で挙兵し,鎌倉に攻め入って幕府を滅亡させます。しかし後に,高氏と義貞は,宿命のライバルとして鎬(しのぎ)を削ることになります。
 高氏は,六波羅を滅亡させると,いち早く全国の軍事警察権を掌握するために動くと共に,一族を関東に下向させ,鎌倉を押さえます。そして後醍醐天皇が帰京して,建武新政が始まると,天皇の名「尊治」の一字を賜って「尊氏」と改名するのです。しかし,尊氏の行手には様々な難題が待ち構えていました。ともあれ延元3年(1338),北朝によって,尊氏は征夷大将軍となります。しかし……。