足利義政と日野富子

 足利義教が暗殺されたあとを継いで,義教の子義勝が7代将軍の座につきます。しかし,わずか8ヵ月在職しただけで,嘉吉3年(1443)7月,赤痢のために急死してしまいました。そのあとを継いだのが,義勝の弟で10歳の足利義政です。その義政を補佐したのが,16歳の管領・細川勝元でした。ですが16歳と10歳では,思うにまかせません。これを操っていたのが,義勝・義政の母である日野重子です。さらに政所長官の伊勢貞親が,義政を後見しました。
 やがて義政は,日野重子や伊勢貞親から自立しますが,新たな取り巻きが現れます。義政の愛妾今参局(いままいりのつぼね)と,大納言の烏丸資任(からすまるすけとう)・有馬持家の三人です。それぞれ「ま」がつくところから,「三魔」と称されました。
 三魔の中で最も嫌われたのが,お今と呼ばれた今参局です。才色兼備で,年少の義政の愛を一身にうけ,わがままなふるまいが多く,畠山持国と細川勝元が,彼女の追放を義政にせまったほどです。そのため処罰されかけますが,今後政務にはいっさい口出ししないことを条件に許されます。
 その2年後の康正元年(1455)正月,お今は義政の子を生みます。このころから,また政治むきに口出しし始めました。日野富子が義政の正妻として足利家に輿入れしたのは,この年の八月下旬のことでした。しかし,愛妾今参局をはじめ,義政には何人もの側室がいて,富子の立場は微妙でした。
 富子が義政の男子を生んだのは,長禄3年(1459)のことです。しかし男子はすぐに死んでしまいました。すると,赤子の死は,今参局がのろったからだという風評が立ちます。これを耳にした義政は,お今を琵琶湖の小島に流してしまいます。しかし富子の怒りは激しく,配所についたお今を殺してしまいました。二十年後,富子はお今のために神社を建立します。お今の亡霊に悩まされたからだといわれています。
 ともあれ,お今がいなくなり,富子はファーストレディの地位を築いていきます。義政は従一位内大臣で右大将を兼ね,ぜいたくざんまいの生活を送ります。富子と共に,豪勢な物見遊山もたびたび催しています。また満開の桜のもとで盛大な宴を開き,黄金のハシで客人をもてなしたりもしました。さらに義政は,正倉院に秘蔵されていた名香「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取ったといいます。
 義政がまさにわが世の春を謳歌していたころ,世の中には不思議な現象や天変地異が続きます。さて……。