長屋の便所とごみ溜

 パリの下水道が普及したのは19世紀の末になってからのこと。それまでのパリの街は,糞尿の臭気に悩まされ続けていたという。というのは,パリのアパートには共同トイレが少なく,もっぱら便器を使用していたからだ。便器の中味は決められた場所に捨てなければならないのだが,市民はそれを面倒くさがり,夕暮になると窓から街路に,「ギャルデ・ロー!」(水に注意!)と怒鳴って投げ捨てる習慣が一般化していた。糞尿やごみ処理の問題は,大都市には必ずついてまわる。見かけは美しいパリの街も,一歩裏へ回われば,糞尿の臭いがただよい,ゴミだらけの街であったのだ。
 では,常にパリより人口の多かった江戸はどうであったか。臭気もただよわず,ゴミもない清潔で美しい町であった。江戸の糞尿は,周辺農村にとって貴重な肥料・下肥(しもごえ)として,売られていた。処分に困まって捨てるなどということはなかった。ごみも,各地の芥溜(あくただめ)から水路沿いの大芥溜に集積され,芥船によって運ばれて永代島の埋立てに用いられていた。
 さて,便所の糞尿であるが,裏長屋の場合,権利は大家が持っていた。共同便所は,惣後架(そうごうか)また惣雪隠(そうせつちん)といわれたが,その糞尿を売った収入がばかにならなかった。
「店中(たなじゅう)の尻で大家は餅をつき」
「こえとりへ尻が増えたと大家いい」
などという川柳がのこされている。家賃を滞納する住人も,便所は使用する。下肥代は大家にとって,大事な収入源だったのである。
 なお,江戸の下肥は「江戸肥」と呼ばれたが,その江戸肥にも等級があった。もっとも上等とされたのは,大名屋敷の男子の排泄物で,「きんばん」と呼ばれた。つぎが町中(まちなか)の共同便所の「辻肥」,長屋などの「町肥」,尿の多い「たれこみ」と続いた。汲取り人は「下掃除人」と呼ばれ,当初は農家が,武家屋敷や町屋と直接交渉して汲取りに来ていたが,やがて専門の業者ができた。そうなると,多くの下掃除の権利を手に入れて大儲けする業者も出てきて,下肥の価格の高騰を招いた。
 最初に下肥値下げ運動が起こったのは,寛政元年(1789)のこと。武州・下総三十七ヶ領1016ヶ村が,値下げを幕府に訴えている。その後,何度も値下げ運動が起こるが,値が下がると下肥の質の低下を招いた。安くした分,業者が利益を維持するために,水でうすめたりしたからである。ちなみに,天保期(1830~1844)には,江戸における下肥の年間取引額が3万5千490両あまりにのぼっている。1両を10万円とすれば35億円である。
 しかし,人が排泄したものを肥料にして野菜を作り,その野菜を人がまた食べるというのは,究極のリサイクルではないか。いま,水洗で流してしまうのは,もったいない?