長篠の戦い

 天正3年5月21日,グレゴリオ暦に換算すると,1575年6月8日に当たります。まさに梅雨のさなかです。この日,三河国設楽原(しだら・したらがはら)で,織田信長と徳川家康の連合軍と,武田勝頼率いる騎馬軍団が激突しました。俗にいう「長篠の戦い」で,設楽原は,現在の愛知県新城(しんしろ)市です。結果,勝頼は敗れ,甲斐武田家は滅亡への道を辿(たど)ることになります。
 一大の英傑武田信玄が亡くなったのは,天正元年(1573)4月のことです。大軍を率いて上洛を目指し,三方ヶ原の戦いでは徳川軍を破って,まさに破竹の勢いで進軍を続けます。ところが,信玄が急病となり,急遽甲州へ引き返す途中,病没してしまいました。まだ52歳でした。結核と癌の二説があります。NHK大河ドラマになった新田次郎の「武田信玄」は,結核説でした。なおこの作品は,月刊「歴史読本」に15年にわたって連載され,筆者(高橋)が担当しました。
 さて,武田軍の上洛が中止されると,家康が北三河の奪回を企って行動を開始します。そして天正元年(1573)9月に入ると,武田方であった長篠城を開城させました。しかし天正2年(1574)に入ると,武田勝頼の活動が活発になります。6月上旬には,1ヵ月に及ぶ攻防戦の末,遠江(とおとうみ)における徳川方の前線基地高天神城(たかてんじんじょう)が,武田軍に攻め落とされました。そして翌天正3年(1575)5月,武田軍は長篠城を囲みます。このとき,長篠城から援軍要請のため遣わされた鳥居強右衛門(すねえもん)が,帰城の寸前に捕まり,長篠城の目前で磔刑となりました。強右衛門は,「援軍来たらず開城すべし」と言うように強請されるのですが,「援軍は近し」と大声で城兵に伝えたので,城兵の士気は大いに鼓舞されたといわれています。9月15日のことです。18日,信長は設楽郡の極楽寺山に陣を構え,連子(れんご)川の西方に幾重にも柵を築きます。戦国最強といわれた武田の騎馬軍団を防ぐためのものです。
 『信長公記』によれば,織田・徳川連合軍の総勢は3万,対する武田軍は半数の1万5千でした。しかし武田軍は強力な騎馬軍団を擁しています。連合軍はこれを防ぐために,幾重にも馬防柵を築いたわけですが,決戦の日は,梅雨のさなかです。
 もし雨が降れば,武田騎馬軍が圧勝したものと思われます。連合軍の火縄銃が使えないからです。しかし,天は連合軍に味方しました。この日は晴れ,騎馬で攻めかかる武田軍は,ことごとく馬防柵に防がれ,鉄砲の餌食になったのです。連合軍の大勝利です。『信長公記』によれば,武田軍は1万余の兵を討ち取られたといいます。
 この結果,武田勝頼は以後連敗を重ね,ついに天正10年(1582)3月,甲州田野(たの)の戦い,俗にいう天目山(てんもくざん)の戦いで滅亡しました。長篠の戦いは,騎馬を中心とする戦いから,新兵器の鉄砲を中心とする戦いへの転換機となったのです。