頼朝を支えた関東の平氏

 平安時代の末期,12世紀半ばに起こった保元の乱(1156)と平治の乱(1159)によって,源平時代の幕が開きます。それまでの藤原氏を中心とする貴族中心の王朝政治は,源氏と平氏という新興の武家勢力によって翻弄され,治承4年(1180)の源平合戦の開幕によって終焉しました。
 ではまず源氏と平氏について,見ていくことにします。「源(みなもと)」「平(たいら)」という姓は,臣籍降下(しんせきこうか)した元皇族に与えられた賜姓(しせい)です。天皇とその一族すなわち皇族は,姓を持っていません。ですが,臣籍に降下して皇族の身分を離れると,姓が必要となります。
 「源」姓を与えられた例は多く,嵯峨天皇が皇子皇女に与えた嵯峨源氏に始まり,仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・花山・三条ら各天皇の皇子女が,「源」姓を賜わって臣籍に下り,源氏の諸流が生まれました。多くは貴族となりますが,清和天皇から出た清和源氏が武門の名流として最も栄え,この系統から出た源頼信とその子義家(八幡太郎)が,前九年・後三年の役による活躍で東国の武士の信望を集め,関東における武士団の棟梁としての地位を獲得したのです。その八幡太郎義家の孫が源義朝で,源頼朝はその三男です。
 さて平氏は,桓武天皇の皇子の葛原親王の子である高棟王や高見王らが,「平」姓を与えられて臣籍降下したのに始まります。高棟流は宮廷貴族として活躍しますが,高見王の子である高望(たかもち)が関東に下って土着し,その子孫が坂東平氏の諸流を生みます。また,その中から岐(わか)れた伊勢平氏が,平清盛につながっていきます。
 坂東と関東は同じ意味で,箱根の坂(箱根の関)の東の土地という意味。さて関東に広がった主な平氏は,千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の八流があり,坂東八平と呼ばれます。この坂東平氏のほとんどが,源頼朝の挙兵を支え,鎌倉幕府の有力な御家人(ごけにん)になりました。
 ではなぜ,関東の平氏たちはこぞって頼朝に味方したのでしょうか。実は彼らに,中央で権力をほしいままにする平家と同族であるという意識は,ほとんどありませんでした。彼らには,平将門以来の,中央権力(すなわち西の勢力)に対する反逆の精神が,脈々と流れていたのです。彼らは平氏の一族であるよりも,東国の武士なのです。また頼朝が北条政子と結ばれたことも,大きなことでした。北条氏は,伊豆に根を張った平氏の一族ですが,政子の父北条時政は全面的に娘政子の婿頼朝を支え,関東の平氏たちを味方に引き入れるため,全力を尽くしました。こうして頼朝は京都の平氏を破り,関東の鎌倉に幕府を開いたのです。