日本は明治時代のはじめまで,蝦夷地(北海道)と琉球(沖縄)を除き,73ケ国に区分されていました。関東地方ですと,武蔵国,相模国,上野国,下野国,常陸国,下総国,上総国,安房国のいわゆる関八州です。州(洲)は,訓で「ス」「シマ」「クニ」などと読みます。もとは川の中にある島のことですが,行政上の一区域の呼称となりました。漢の武帝は天下を12の州に分け,その下に郡を置いています。
古代のわが国では中国にならって,日本を多くの国に分けました。古代日本の場合「国」は「州」と同義です。奈良時代が始まったとき,日本は五畿(畿内)七道という大きな地域区分のもとで,68ケ国に分類されていました。「畿」というのは,古代中国では天子が直接支配する王都を中心とした千里四方の土地,また王都そのものをいいますが,日本の場合は,大和,山城(山背),河内,和泉,摂津の五国を指します。今でいう,奈良,京都,大阪が畿内で,日本の中心というわけです。
七道というのは西から,西海道,南海道,山陽道,山陰道,東海道,北陸道,東山道。このうち西海道は9つの州(くに)に分類され,のちに九州と呼ばれます。南海道は4つの国から成る四国と淡路・紀伊の6ヶ国をいいます。東山道は,近江(滋賀県)から日本列島の中央山地である脊梁(せきりょう)山脈に沿って本州の最北端までの広大な地域ですが,関八州以北は,陸奥国と出羽国の2国だけでした。のちに羽前,羽後,陸奥,陸中,陸前,岩代,磐城の国々に分かれますが,古代における東北の地は,最後まで「畿」の勢力が及ばなかった地域ということになります。
ところで,これらの国々が,中央政府に属する行政区域のクニであった時代は,古代で終わりをつげます。古代,それぞれの国には,中央から地方長官である「守(かみ)」が派遣されましたが,中世以後の守は形式的な官職名になります。それでも旧国名は生き続け,武蔵守,信濃守などという国守名も,武家の肩書きとして生き続けることになります。
いや現代に至っても,旧国名は地名や学校名や商品名など様々な分野で生き続けています。長野県人や山梨出身の経済人というより,信州人や甲州商人といった方が,今でも判り易い。そういった例は数多くあります。「国」とは何か? 改めて一考の余地がありそうです。ところで,今から千数百年前にはすでに,旧国名のほとんどが成立していたことを,ご存じでしたか?
日本語のタイムカプセル
日本語が,いつどのようにして成立したのか定かではありませんが,縄文時代に遡ることはまちがいありません。縄文時代は1万数千年つづきましたから,日本語の起源は,少なくとも1万年以上前ということになります。縄文人は,縄文式土器をつくり,集落を営み,日本列島の他地域に住む縄文人たちと交易を行なっていたことが判っています。
青森県の三内丸山遺跡は,今から約5500年前から4000年前ぐらいまでの間,縄文人たちが生活した大遺跡ですが,厖大(ぼうだい)な遺物が出土し,巨大な木造建造物や墓制があったことが判明しています。文字はありませんでしたが,言葉があったことはまちがいありません。彼らが話していた言葉が,今日の日本語の源流の一つであることは,おそらく確かです。
やがて紀元前300年(あるいはも少し前)ごろから弥生時代となりますが,縄文人と弥生人が入れ替わったわけではありません。両民族が同化しつつ共通の言語ができ上がり,やがて古代日本におけるグローバルな言語である倭語(やまとことば)が成立したものと思われます。
弥生時代が始まってから千年の時を経て,すなわち奈良時代始めの8世紀初頭,私たちの祖先はすでに厖大な語彙の日本語を成立させていました。
8世紀の前期に成立した『古事記』や,中期以降に成立した『万葉集』によって,私たちはそれ以前の日本語に触れることができます。そして驚くべきことに,現在私たちが使っている日本語の語彙の多くが,当時すでに使われていたことを知ります。
じつは『古事記』と『万葉集』は,ヤマトコトバを後世に伝えるためのタイムカプセルなのです。『古事記』の序文は漢文で書かれていますが,本文はほとんどすべてがヤマトコトバすなわち当時の日本語で記されています。漢字は日本語を表記するための記号であって,漢語が入り混じっているわけではありません。『万葉集』には4516首の歌が収録されていますが,漢語を混えた歌は16首にすぎません。4500首が倭歌すなわちヤマトコトバウタです。つまり『古事記』と『万葉集』は,明らかに,当時の日本語を,物語や歌に託して,後世に伝える意図で作られたものといえるのです。ぜひ,ひもといてみてください。
本の居場所
いつの日か 君のノートもここに並ぶのだ
One day, these notebooks will find their place here.
これは,映画「奇跡がくれた数式」でイギリス人のハーディ教授が
インド人学生のラマヌジャンにかけた言葉です。
ラマヌジャンは直感的に数学の公式をひらめく天才ですが,
学歴が無いことやインド人であることを理由に,
イギリスで差別に苦しみます。
ハーディ教授は彼の才能を認めていますが,
自分の発見が誰にも相手にされないことに
ラマヌジャンは焦りや苛立ちを募らせていきます。
それに気が付いたハーディ教授は,
彼を大学の図書館に連れていきます。
そこでは,ニュートンなど著名な数学者のノートなどが展示されており,
それらを見ながら上のセリフでラマヌジャンに辛抱するように伝えます。
いつの日か 君のノートもここに並ぶのだ
このセリフはとても英語らしい表現に感じられます。
この日本語訳をあえて英語にしてみてください。
様々な表現の仕方があるかと思います。
One day, these notebooks will be placed here.
One day, many people will see these notebooks here.
と言っても間違いではないです。
しかし,あえて能動態を使うことで,
あたかも本が自分自身で
自分の居場所を獲得していくようなニュアンスが加わり,
それが様々な困難の中でもがくラマヌジャンの姿と重なって
味わい深いセリフになっているように感じます。
ラマヌジャンのノートのように
私たちが制作に関わった本や制作物が
それぞれの場所で誰かの助けになっていてほしいと思います。
〈英語担当T〉
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