大石内蔵助と元禄赤穂事件

 赤穂(あこう)事件がなければ,大石内蔵助(くらのすけ)の名が歴史に残ることはなかったでしょう。地方の一小藩の国家老ではありましたが,地方史にすら名が残ることはなかったと思われます。ですけれど,赤穂事件によって大石内蔵助は,一躍(いちやく)超有名人になってしまったのです。
 赤穂事件とは,元禄15年(1702)12月14日夜(正確には15日未明),赤穂浪士47人が,吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ/よしなか)邸に討ち入り,亡君浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の仇討ちを遂げた事件です。
 事件の発端は,討ち入りの1年9ヵ月前,江戸城中松の大廊下で起こった浅野内匠頭の刃傷事件です。その日,江戸城本丸では,天皇・上皇からの使者である勅使・院使が,将軍に別れの挨拶をする儀式の日でした。浅野内匠頭は,高家(こうけ。幕府の儀式典礼を司る家柄)筆頭の吉良上野介義央の指導のもとに,勅使の接待役を仰せつかっていました。
 ところが,その儀式の直前,浅野内匠頭が突然,吉良上野介に斬りかかったのです。そばに居た梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)が,すぐさま内匠頭に飛びかかったため,上野介は額を傷つけられただけの軽傷ですみました。しかし,大切な儀式の日に,江戸城中で起こった殺人未遂事件です。将軍綱吉の厳命で,現行犯の浅野内匠頭は即日切腹,赤穂藩も取り潰されてしまいました。
 これで終われば,江戸城中における浅野内匠頭の乱心事件として,歴史に1行をとどめたにすぎなかったでしょう。しかし,1年9ヵ月後に,廃藩で浪々の身となった大石内蔵助を中心とする旧赤穂藩士たちが,亡君の仇討ちということで吉良邸に討ち入り,大殺戮のすえ,吉良上野介を殺害したのです。50日後,大石内蔵助以下討ち入った浪士たちは,全員切腹させられました。
 この事件は,たちまち江戸中の評判となり,日本各地に伝えられていきました。民衆はこれを「快挙」とし,浪士たちを「義士」とあがめ,やがて「忠臣蔵」がつくられていくことになります。
 「忠臣蔵」というのは,本来は人形浄瑠璃や歌舞伎の代表作である「仮名手本忠臣蔵」を指していいます。現在は,その他各種の演劇や,講談,映画,テレビドラマを含め,いわゆる義士物の総称が「忠臣蔵」となっています。
 大石内蔵助は,その「忠臣蔵」の主役です。赤穂47士の首魁として吉良邸に討ち入り,山鹿(やまが)流軍学をもって決死の浪士たちを指揮する内蔵助のイメージは,一軍の将たるにふさわしい堂々たる偉丈夫です。しかし実際の内蔵助は,背も低く,小肥り気味の人物であったといいます。また,ある資料には,痩せすぎの小男であったと記されています。「昼行灯(ひるあんどん)」と称され,ふだんはぼんやりとした人物であったようです。
 ですが元禄14年3月14日をもって,赤穂浅野家の「昼」の時代は終わりをつげます。赤穂事件によって「夜」の時代に突入した赤穂家にとって,無用の長物であった行灯が,いよいよその真価を発揮することになるのです。刀傷事件以後,討ち入りまで,大石内蔵助がいかに活躍したかは,あえて記す必要はないでしょう。