富士山の大噴火と未曾有の大災害

 宝永4年(1707年)10月4日の午前10時ごろ,太平洋沖を震源地とする巨大地震が日本列島を襲いました。マグニチュード8・4と推定され,震度6以上と思われる地域は,駿河から四国の端にまで及び,房総から九州に至る太平洋沿岸を津波が襲ったのです。
 富士山南麓では,地割れで地下水が噴き出したり,山崩れで集落が全滅するなど,大きな被害を出しました。その山崩れは富士川を塞き止め,3日夜には決潰して濁流を駿河湾へと押し出し,海上のはるか先まで濁流の帯が続いたといいます。大地震の翌日の10月5日の午前8時ごろ,再び富士山麓を中心に巨大地震が発生しました。この2日間の地震で,少なくとも死者2万人,流失家屋2万戸,全半壊等の家屋の被害は10万戸を超えたと推定されています。
 富士山が突然大爆発を起こしたのは,地震からおよそ50日後の,宝永4年11月23日のことでした。頂上からの噴火ではなく,火を噴いたのは6合目付近の南東斜面でした。噴火は12月8日の夜半まで続き,山麓の村々を焼いたり灰に埋めたりしただけでなく,駿河・相模・武蔵の国々に,降灰による未曾有の被害をもらしたのです。噴火のあとには巨大な噴火口と,その縁(ふち)に盛り上がった新山・宝永山(ほうえいざん)ができました。
 西風に運ばれた火山灰が江戸の町に降りはじめたのは,大噴火の日の11月23日の午後3時ごろからです。新井白石の『折たく柴の記』によれば,はじめは鼠色の灰が降り,次第に激しくなり,やがて夕立のごとく黒砂が屋根を叩き,江戸中が真暗になったといいます。白石は講義中でしたが,燭(しょく)をともして授業を続けた,と同書に書き記しています。風下に当たる富士山東麓の被害は甚大で,須走村(すばしりむら)などは,火山灰や火山礫に埋まって全滅しました。当時の記録によれば,山麓では3尺から5尺(約90センチから1・5メートル)灰が積もったといいます。
 昭和36年(1961年)に御殿場市(ごてんばし)の中畑(なかばたけ)で発掘された住居址を見ますと,火山灰の深さは約2メートル,その下に細かな軽石が15~20センチの層をなしていました。この厖大(ぼうだい)な火山灰は,田畑を埋め尽くしただけでなく,雨で酒匂川(さかわがわ)に流入し,川底を押し上げました。このため大雨のたびに氾濫し,足柄平野(小田原市)に洪水をもたらすという,二次災害を招いたのです。
 この降灰被害をもろに受けたのが,小田原藩領の農民でした。潰滅的な打撃を蒙った小田原藩では,なす術(すべ)がありません。そこで藩内104ヶ村4000人の農民たちは,幕府に救済を求めました。幕府は,小田原藩による自力復興に困難を認め,宝永5年閏(うるう)正月,藩領のうち190ヵ所5万6千石分を上知(あげち)します。すなわち,その分を天領に組み入れ,幕府が直接復旧工事に当たることにしたのです。
 その責任者に任命されたのが,関東郡代の伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)です。
 幕府は諸大名に対し,石高百石につき二両宛の国役金を賦課し,計48万両余が集まったといいます。だが実際に復旧工事に導入されたのは16万両にすぎませんでした。もっともらしい名目を立てて増税し,ちゃっかり他に流用するという国家の体質は,今も昔も変わりません。しかし伊奈忠順は,農民救済のために奔走し,独断で駿府の代官所の米蔵を開け,各村々の窮民たちを救済するのです。そのため忠順は罷免され,正徳2年(1712年)2月,切腹して自ら命を絶ちました。罹災地がすべて旧に復したのは,30年後のことでした。