八百屋お七の放火事件

 「火事と喧嘩は江戸の華」。江戸ッ子は気が短かく,喧嘩騒ぎは日常茶飯事です。「てやんでい」「べらぼうめ」,とはいえ,翌日にはケロッとして,喧嘩相手と酒を飲んでいたりします。
 その喧嘩と同じくらい,火事も多くありました。特に冬は,暖を取るためもあって火をよく使いました。当然のことながら,先火が少なくありません。空気が乾燥しているうえに,北西の季節風が吹きます。さらに,江戸の町は大名屋敷を除き,密集していて,町屋のほとんどは木と紙でできていました。屋根も板葺きか,茅葺き・藁葺きが多かったのです。
 町屋の多くが瓦葺きとなり,火除(ひよけ)地などが造られるようになったのは,大岡越前守忠相(ただすけ)が江戸町奉行に赴任して以来のことでした。
 享保元年(1716年)8月,徳川吉宗が第8代将軍となりました。翌享保2年の1月,江戸は大火に見舞われます。将軍の膝元である江戸の町の復興と治安維持,景気回復が急務となりました。2月,吉宗は,江戸町方の行政官のトップである江戸町奉行に,大岡越前守忠相を任じます。41歳,異例の出世でした。
 忠相は,吉宗の期待にたがわず,いかんなくその実力を発揮します。享保の改革です。
 忠相がもっとも力を入れたのは,江戸の町を火災から守ることでした。それまでの江戸の町屋は,前述したようにほとんどが茅葺きか藁葺き,あるいは板葺きでした。忠相は瓦屋根を奨励し,半ば強制的に瓦屋根の町並みをつくりました。いっぽう,延焼をおさえ,消火活動をしやすくするために,火除地もつくりました。神田にあった護持院が消失すると再建をゆるさずに,その跡地を空地のままにして,火除地にしたことは有名です。
 同時に忠相は,消防組織を新たにつくりました。いろは47組の町火消の制度です。もっとも「へ組」「ら組」「ひ組」は語呂(ごろ)が悪いので省き,代わりに「百組」「千組」「万組」としました。彼らは,いったん火事が発生すると,まといを持ち先を争って現場に駆けつけ,命がけで消火活動にあたりました。やがて,町火消の男衆は,江戸ッ子を代表する花形スターとなりました。
 もっとも町火消が活躍するのは,19世紀になってからです。大名火消が設けられたのは,江戸最初の大火である桶町火事(寛永18年=1641年)の翌々年,さらに定火消の制が創設されたのは,振袖火事として知られる明暦の大火(明暦3年=1657年)の翌年(万治元年)のことでした。
 火事にまつわる話はいろいろありますが,もっともよく知られているのは,八百屋お七の放火事件ではないでしょうか。お七は,生きたまま火あぶりの刑,すなわち火刑に処せられました。天和3年(1683年)3月29日のことです。いきさつは,こうでした。
 本郷丸山の八百屋の娘お七は,天和元年の火事で家を焼き出され,一家で駒込の吉祥寺に寄宿しました。ここで,寺小姓の美男吉三郎とデキてしまいます。お七は心身共に激しく燃え上がります。ですが,家の新築が成ると,家に帰らなければならなりません。すなわち吉三郎とは別れなければならないのです。そこでお七は,あさはかにも,新築成った我が家に火を付けてしまいます。家が燃えれば吉三郎に会えると。
 しかし待っていたのは放火の刑でした。放火は最重罪です。かくてお七は,生きたまま火あぶりの刑に処せられたのでした。