江戸時代最大の大水害

 徳川幕府による支配体制は,250年間に及びました。江戸時代です。その間,初期には島原の乱や大坂の役があったものの,概(おおむ)ね平和な時代が続き,武家文化,町人文化が栄えました。徳川氏の居城江戸城を中心に,江戸の町には多くの人びとが居住し,様ざまな文化が花開いたのです。
 とはいえ,常に江戸の町が平和であったわけではありません。避けようのない災害,すなわち天災が,少なからず江戸市民たちの生活を脅かしました。ここでは,水害を見ていきたいと思います。とりあえず,江戸時代を通じて忘れることのできない9つの水害を挙げることにしましょう。
 延宝8年(1680年)の水害。8月5日の夜半より大暴風雨となり,6日の昼ごろから倒壊する家屋が続出しました。さらに午後2時ごろに津波が襲って,本所(ほんじょ)や深川,築地(つきじ)のあたりに大きな被害が出ました。溺死者700人,20万石の米が水に流されたといいます。
 宝永元年(1704年)の水害。6月半ばからの大雨で,7月3日に利根川猿が股の堤防が決壊。葛西一帯から亀戸,本所,深川,浅草方面が水びたしになりました。
 寛保2年(1742年)の水害。江戸第一の水害といわれています。7月28日以来の大雨に加え,8月1日2日と大暴風雨に。関東郡代の伊奈氏が,江戸を救うために猿が股の上流で堤防をきり,水を葛西に流しました。このため江東方面は水びたしとなり,綾瀬(あやせ)や千住三丁目の堤防もきれ,浅草から下谷(したや)一帯まで泥の海と化しました。8月いっぱいの幕府の炊き出しは,延べ18万6千人分に達したといわれています。
 安永9年(1780年)の水害。6月20日ごろから利根川,荒川の増水で江東方面が水びたしとなり,両国橋,永代橋,新大橋が決壊して大騒動となりました。
 天明6年(1788年)の水害。7月12日夜から大雨。18日になってもやまず,大洪水に。江東地帯は,寛保の水害の時より四尺(1.2メートル)深く水が出たといわれています。
 寛政3年(1791年)の水害。8月以来の雨で隅田川が増水し,新大橋,大川橋が決壊。9月4日に大暴風雨,さらに深川,築地,芝浦方面を津波が襲い,大災害となりました。
 享和2年(1802年)の水害。6月来から7月上旬にかけての大雨で権現堂堤がきれ,綾瀬川が氾濫し,葛西方面から本所,深川にかけて大被害が出ました。
 弘化3年(1846年)の水害。6月中旬以降の大雨で,28日,川俣村の堤防が決壊。30日以降,浅草,本所,深川から葛西一帯が水びたしとなり,「巨海の如し」という惨状になりました。
 安政3年(1856年)の水害。8月25日に大暴風雨となり,永代橋,新大橋,大川橋が決壊。本所,深川方面は出水によって被害が甚大になりました。また風による被害も大きく,特に佃島(つくだじま)の被害は大きかったといわれています。
 以上のうち,寛保2年,天明6年,弘化3年の水害が,江戸の3大洪水といわれています。
 なお,当初隅田川は,利根川がとうとうと江戸湾に流れ込んでいて,文字通り坂東太郎の名にふさわしい様相でした。ですが,2代将軍秀忠の時代から3代家光の時代にかけて,関東郡代伊奈氏の手によって,大規模な改修工事が行なわれ,ついに荒川筋を移しかえて,利根川を銚子口に流すようにしたのです。江戸市街地の発展と,水害をなくすことによって,埼玉一帯を肥沃な田地とするためでした。その上,荒川筋の本流が上流で入間川筋にきりかえられたので,事実上隅田川は入間川筋となりました。このことによって,今日に至ってなお,一朝危機あるときは利根川筋の水は,一挙に東京を目指して押し寄せるのです。
  隅田川は何百年もの間,時に荒れ狂って,江戸の市民,すなわち江戸ッ子たちに,少なからぬ被害を与え続けてきたのです。