幕府,天文台を神田佐久間町に建立

 天文方(てんもんかた)は,編暦や改暦の仕事に携るきわめて重要な役職で,延享3年(1746年)から幕末まで続きました。渋川春海(しぶかわしゅんかい)が,貞享改暦の功により,はじめて天文方に任じられて以来,幕末まで渋川家のほか,猪飼・西川・山路・吉田・奥村・高橋・足立の8家が天文方でした。
 世襲制ではありますが,養子を迎えることが少なくありませんでした。実子が必ずしも優秀であるとは限りません。また改暦のような重要な仕事のためには,輩下や民間から,新しく天文方を取り立てることもありました。
 江戸時代の天文学を語るとき,高橋至時(よしとき)の存在を忘れるわけにはいきません。至時は,明和元年(1764年)11月30日,大坂(大阪)で生まれました。幼少時から算学を好み,15歳で家督を継ぎます。そして天明7年(1787年),医者で天文学者であった麻田剛立(あさだごうりゅう)の門に入りました。剛立は,医者として患者の治療に当たる傍ら,数学や暦学を教えるという,きわめて優れた人物でした。
 至時は,その麻田剛立に,天文医算学を学びます。そして,その当時の最新の西洋天文説を伝える「歴象考成」後編のうちのケプラー楕円軌道論の研究につとめました。寛政7年(1795年)3月,至時は,暦学御用のため,同じ麻田剛立門下の間重富(はざましげとみ)と共に,江戸出府を命ぜられ,同年11月,天文方に任命されます。そして翌8年8月,改暦御用を仰せつけられ,翌9年末まで,改暦作業の中心的人物として活躍したのです。
 至時は,享和3年(1803年),フランスの天文学者ラランデの天文学書の蘭訳本を入手,半年間その研究に没頭して『ラランデ歴書管見』を著わしますが,文化元年の正月5日,41歳の若さで病没してしまいました。おそらく無理がたたったのでしょう。至時は,江戸下谷(したや=東京都台東区東上野)の源空寺に葬られました。
 なお,井上ひさし著『四千万歩の男』で知られた伊能忠敬は,はじめ至時に師事しました。浅草清島町の源空寺には,忠敬の遺言によって,至時と忠敬の墓が並んで立っています。
 さて,天文台に話を移しましょう。当初「天文台」という呼称はありませんでした。天体観測や天文学に関する研究などが行われた場所は,いろいろな呼ばれ方をしましたが,「司天台」また「観象台」といわれることが多かったようです。江戸時代,京都の梅小路の土御門(つちみかど)家に,司天台が置かれていました。また江戸では,渋川春海が天文方に任じられた貞享2年(1685年),牛込藁店(うしごめわらだな)に司天台が設けられました。その後,元禄2年(1689年)に本所(ほんじょ),さらに同14年に駿河台に移されました。春海の没後しばらくして,神田佐久間町に,延享3年(1746年)から宝暦7年(1757年)まで司天文台が置かれました。また明和2年(1765年)から天明2年(1782年)までは牛込に司天台が置かれ,その後,浅草福富町に移されました。
 この浅草・牛込の司天台は,高橋至時や間重富が,寛政の改暦に際して観測を行なった場所です。また天保13年(1842年)に九段坂上に司天台が建てられ,天保9年から弘化3年(1846年)までの観測記録が,『霊憲候簿』として99冊にまとめられています。当時の江戸の夜空は,いまでは考えられないほどに美しく,多くの星ぼしが輝いていたにちがいありません。