月: 2023年5月

ちはやぶる日本史を更新しました。

ちはやぶる日本史を更新しました。「幕府,加賀藩の御家騒動に介入

幕府,加賀藩のお家騒動に介入

 18世紀の中ごろ,加賀藩で大規模なお家騒動が起こりました。一名大槻(おおつき)騒動とも呼ばれる「加賀騒動」です。
 加賀前田家6代藩主前田吉徳(よしのり)の寵臣(ちょうしん)大槻伝蔵(おおつきでんぞう)が,門閥・守旧派に弾劾されて失脚し,流刑地で自刃(じしん)した事件です。これに連動して,吉徳の愛妾お貞の方(真如院=しんにょいん)とその男子たちが幽閉されて死んだ事件がからみます。
 大槻伝蔵は,足軽の子にすぎませんでしたが,吉徳の遊び相手として近侍したことにより,禄高3千8百石の上級家臣に出世しました。大槻は14歳で,世子吉徳の御居間方坊主,すなわち遊び相手として出仕しますが,吉徳と気が合ったことにより重用され,享保11年(1726),士分に列しました。その後18年間に,17回の加増・昇進を見るという異例の出世をとげました。そして寛保元年(1741)に人持組という上級家臣となり,同3年には禄高3800石となったのです。
 その間,終始吉徳の御側御用を勤めて信任が厚く,吉徳やその子供たちが,大槻の屋敷に遊びに行くことも少なくなかったといいます。大槻一族もそれぞれ立身しました。
 寛保元年秋,江戸より帰国した吉徳は,厳しい倹約策を取りました。とはいえ,吉徳は病弱であり,実際に政務を司ったのは大槻伝蔵でした。大槻は,費用節減・大坂借銀(借金)の調達・新規課税などの財政策を行ないましたが,なかなかうまくはいきませんでした。
 金沢藩財政の赤字は,5代藩主綱紀(つなのり)が文化事業を大いに行なって「ぜいたく大名」と呼ばれた17世期末からすでに始まっていて,藩士の経済生活の破綻も,おおいがたいものがありました。それが元禄の華美な風潮のなかで,遊侠の風体,刃傷沙汰など士風の頽廃となってすでに現われていたのです。
 農村では,商品・貨幣経済の浸透がすすみ,奉公人を雇傭する大手作り経営が行きづまって,改良農具・金肥の需及とともに,家族労働による自作・小作の小経営へ移行する転換期にありましたが,その不安定性の中で多くの農民は疲弊していたのです。
 不作の際の滅租・貸米の措置が不充分なため,正徳・享保期は百姓一揆の高揚をみるに至ります。この結果,寛保元年には,加賀藩の借銀は2万貫にのぼり,翌年にはさらに3~4千貫も増えることが予想されました。こうした情況下で,大槻伝蔵は,加賀藩の政務を担当することになったのす。
 しかし,延享2年(1745),吉徳が没したことにより,大槻伝蔵への厳しい弾劾が開始されます。大槻は,吉徳死後の翌年蟄居を命ぜられ,襲封一年後に急死した7代宗辰の一周忌のあと,遠島の刑となり,寛延元年4月,越中五箇山へ配流されました。その年の6月と7月,江戸本郷の藩邸で毒入りの茶釜の事件が起こり,真如院の娘楊姫付中老浅尾が捕えられ,真如院にも嫌疑がかかって金沢に幽閉されました。物証は何もなかったのですが,大槻と浅尾の密通が露顕したのだといいます。大槻は9月に,隠し持っていた小刀で自害を遂げ,浅尾は金沢に送られてひそかに殺されました。真如院は,翌年の2月に没しています。本人の希望によって,縊死(首をくくっての死)による死であったといいます。
 この事件の関係者全員の処罰が決定したのは,宝暦4年(1754)2月のことでした。この事件については,世上様ざまなうわさが流れ,いろいろに脚色された稗史(はいし)が登場します。また義太夫本や芝居の脚色も少なくありませんでした。