月: 2023年6月

新刊の主な実績を更新しました。

新刊の主な実績を更新しました。

編集者のひとりごとを更新しました。

編集者のひとりごとを更新しました。「五月雨は何色か

五月雨は何色か

東京も梅雨入りし,通勤には傘が欠かせなくなった。
置き忘れても後悔が小さく済むように,安価な傘を持ち歩く。
鉄道会社に寄贈した傘は二桁に達したと思う。

先日は古文の校正で『源氏物語』を扱い,その奥深さに目をつぶっては静かに唸った。
決して難しくて唸った訳ではない。
ふと,学生時代には名著『あさきゆめみし』(講談社)にお世話になったことを思い出す。

多くの教科書で掲載される『源氏物語』の序文「桐壺」にも,その内面描写に光るものがある。

「はじめより我はと思ひ上がり給へる御方方,めざましきものにおとしめそねみ給う。同じほど,それより下臈の更衣たちは,まして安からず。」
(現代語訳:初めから我こそは(寵愛を受けるべきだ)と自負しておられた女御の方々は,このお方(桐壺)を蔑んだり妬んだりなさる。同じ身分,またはそれより低い地位の更衣たちは,女御の方たち以上に(嫉妬の)気持ちがおさまらない。)

自分ではない誰かが時流に乗ることで,多かれ少なかれ心はざわつく。
それが自分(女御)よりも身分が低い者(更衣)であれば,面白くはないものの「自分の方が優れている」と慰められる。

注目すべきは,自分(更衣)と身分の近い者(更衣)が時流に乗った時だ。

「まして安からず」

もしかしたら自分にも(寵愛を受ける)チャンスがあったのかもしれないと思うばかりに,その落差から大きな反発が生まれる。友人と宝くじを一枚ずつ買って,友人だけが一等を当てた感覚だろうか。

そんな(更衣が天皇の寵愛を受けるという起こり得ない)浅い夢だからこそ怨念は尾を引き,梅雨に負けず劣らず,湿度の高い嫌がらせが桐壺更衣に降りかかる。

「結びつる 心も深き もとゆひに 濃きむらさきの 色しあせずに」(左大臣から桐壺帝への返歌)

——桐壺更衣は何色だろうか。

やはり桐の花よろしく紫色が似つかわしい。
だとすれば,桐壺更衣と対立した他の更衣たちは紫色と対立する補色,すなわち緑色だろうか。

ちょうど「五月雨は緑色」と歌った村下孝蔵は,そのアルバムを『初恋~浅き夢みし~』と名付けたのは偶然だろうか。

浅い夢だからこそ消えることのない想いは,今も昔も変わらないのかもしれない。

源氏物語の序文

〈国語担当M〉

ちはやぶる日本史を更新しました。

ちはやぶる日本史を更新しました。「美濃郡上の宝暦・石徹白騒動

美濃郡上の宝暦・石徹白騒動

 宝暦4年(1754年),美濃国郡上(ぐじょう)藩領で大規模な一揆が発生します。「宝暦・石徹白(いしどしろ)騒動」です。
 郡上八幡城は,岐阜県郡上八幡町の一角,海抜356メートルの八幡山の頂きに今もそびえています。白亜三層の天守で,積翠(せきすい)城とも呼ばれています。吉田・小駄良の二川の激流が,奇岩を連ねる山裾を洗い,周囲を飛騨の峻嶮が取り囲む,まさに要害に位置しているのです。城郭の規模はさして大きくはないものの,三百有余年を経た今日,よく保存されています。
 さて,宝暦4年の郡上一揆について,述べることにしましょう。宝暦4年,藩主の金森頼錦(かなもりよりかね)の治政下,大規模な一揆が発生しました。藩が年貢増徴のために採用しようとしていた検見取(けみどり)に,農民たちが反対し,一揆となったのです。農民らは,検見廃止だけではなく,諸課役(かやく)の廃止など16カ条を,藩に要求したのです。
 郡上藩は,いったんは,農民たちの訴えを受理します。いや,受理したように見せかけたのです。いっぽう,裏で幕府に手をまわし,美濃郡代青木次郎九郎から,さらに翌宝暦5年(1755年)には,郡内の庄屋36人に,検見取を承知させたのです。それを機に,農民たちは,再び結集して藩に訴えるとともに,幕府の老中酒井忠寄(さかいただより)に駕籠訴(かごそ)をしました。老中酒井忠寄の行列に直接訴えかけたのです。
 しかし,幕府の審理は,なかなか行なわれませんでした。そのため,宝暦8年(1758年)には,評定所前の目安箱(めやすばこ)に,箱訴(はこそ)しています。農民たちも必死でした。一揆に集結した農民たちは立百姓(たちびゃくしょう),未結集や脱落者は寝百姓(ねびゃくしょう)と称されました。
 また,この一揆の最中,郡上藩管轄下の石徹白の白山社領で,神頭職(ことうしょく)の杉本左近派と神主(かんぬし)上村豊前(うえむらぶぜん)派とが激しく対立し,郡上藩によって石徹白を追われた杉本派が,一揆の最中の宝暦6~8年(1756~58年),幕府に駕籠訴・箱訴を行ないました。その結果,宝暦8年,幕府の両事件への裁許が下り,農民一揆では13人の死罪,石徹白騒動では上村豊前が死罪になるなど,多数の犠牲者が出たのです。いっぽう,藩主の金森頼錦が領地を没収されたのをはじめ,老中の本多正珍(まさよし),若年寄の本多忠央(ただなか)。大目付曲淵英元(まがりぶちひでちか),勘定奉行大橋親義(おおはしちかよし),美濃郡代青木次郎九郎らが役義を召し上げ,また知行召上げなどに処されました。
 なお,当代の人気講釈師馬場文耕(ばばぶんこう)が,郡上八幡の「宝暦・石徹白騒動」を講談化して面白おかしく語ったことによって,獄門に処せられました。幕政を批判したことということで,さらし首になったのでした。また,その講談本『平仮名森の雫(しずく)』も発禁本となりました。幕府の厳しい思想統制のはじまりです。