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江戸の総人口と八百八町
江戸は,18世紀以降,人口100万人を超える世界最大の都市であったといわれます。たしかに,1801年(享和元年)のロンドンの人口が約86万人,翌年のパリの人口が約67万人ですので,江戸の方がずっと大都市だったということになります。しかし,江戸の総人口は,正確には判っていません。
享保6年(1721)に江戸の人口調査が行われ,町人の人口は約50万人,嘉永6年(1853)の調査では約58万人でした。町人の人口は町奉行所による人別帳でほぼ正確に把握されていましたが,武家人口は記録がなく明確ではないのです。しかし,武士と寺社関係者その他の人口は,町人数より常にやや多かったと考えられています。ということは,享保6年の18世紀前半で,江戸の総人口が100万人を超えていたことは確実で,世界第一はまちがいありません。ちなみに嘉永6年の19世紀半ばでは,120~130万人と推定されています。
さて,大都市は膨張し続けるのがふつうです。ところが江戸の場合,享保6年から嘉永6年までの約130年間で,市民(町人)の数は8万人しか増えていません。なぜでしょうか。
実は,もはや江戸には住む土地がなかったからです。町人地は江戸の総面積(約2千万坪=約60平方キロ)のうち,13.65パーセント(約8.2平方キロ)しかなかったからです。千代田区の半分もない土地に約50万人が住んでいたわけで,過密状態もいいところです。
さて,その町人地は俗に「大江戸八百八町」といわれますが,実際はどうなのでしょうか。
慶長8年(1603),徳川幕府が開かれた時点ですでに,日本橋など埋立等によって拓かれた市街地は300町がありました。その後の新開地に対して古町と呼ばれた町々です。新しい町が急激に増えるのは,明暦の大火(1657)後のことです。墨東の開発が進み,本所・深川などが市街地化されていき,約50年後の正徳3年(1713)には倍増で674町となりました。さらにこの年,代官地などの259町が江戸町奉行所配下に組み入れられ,933町になりました。すでに「八百八町」をオーバーです。
そして,はじめて幕府が町人の人口調査をした翌々年の享保8年(1723),町数は1672町となりました。その後,寛政3年(1791)の1678町をピークに,合併などで町数は減っていきます。ともあれ,「大江戸八百八町」は,江戸が大都市であることを誇っていったのだと思われますが,まさかその後に千町も増えるとは,当時の江戸っ子は考えもしなかったでしょう。
なお江戸の町人地は,町ごとに木戸が設けられ,各町は町名主によって管理されていました。しかし,江戸っ子たちは,思いのほかしぶとく,たくましい。そのあたりは次回で・・・。
行列をつくって富士登山
今年,7月~8月の山開きの期間中,30万人を超える人たちが富士山に登ったといいます。毎日平均5千人もの人が山頂に立ったわけで驚きです。登山道はどれも連日長蛇の列。
この富士登山ブームは,富士山が世界遺産となったからというわけではありません。確かに例年より5割ほど登山者が増えましたが,長蛇の列は,何と江戸時代からです。江戸っ子たちが,我も我もと富士山に登っていたのです。
日本人は山登りが大好きで,昔から多くの人が各地の山に登っていました。ことに江戸時代は空前の登山ブームで,富士山をはじめ立山や白山,木曽の御嶽山などの高山から各地の低山まで,名山といわれる山には,シーズン(夏山)になると登山者の列ができました。
江戸時代中期の宝永4年(1707)11月23日,富士山が大爆発しました。宝永山ができたほどの大噴火でしたが,何と約半年後の宝永5年6月1日(旧暦)の山開きには,多くの人たちが富士山に登ります。突貫工事で登山道を復活させ,山開きに間に合わせたからです。江戸っ子たちは,噴火が鎮まって静寂を取り戻した富士山が,少なくとも何十年かは安全であることを知っていました。噴火が収まったとなれば,登ってみたいと思うのは人情です。
登山者の多くは講に属し,先達に率いられて登りました。神社仏閣に詣でるため,また各地の名山に登るための講社は数多く,社寺参詣で最も多かったのが伊勢講,山では富士講です。富士講は江戸市中だけで,俗に八百八講といわれたほどです。
ところで,富士山の頂上には浅間神社の奥宮が鎮座しています。皆さん,富士山は大昔から「神の山」だったと思っていませんか。じつは,江戸時代まで,日本の名山はほとんど例外なく,神仏習合による山岳宗教の場でした。富士山も例外ではなく,大日寺(大日堂)と浅間宮が一体となった一大山岳宗教の山で,山頂にあったのは大日寺の奥の院です。
大日寺が廃されて,山頂の仏像も取り払われ,山麓の各登山口にあった大日堂や諸坊も壊され,仁王門や護摩堂や鐘楼などが取り除かれて浅間神社となったのは,明治になってから,明治新政府による神仏判然令(神仏分離)によるものです。明治7年には,富士山中の仏教的な地名もすべて改称されてしまい(たとえば山頂の文殊ヶ岳が三島ヶ岳というように),現在に至っています。
世界文化遺産となったのに,こうした重要な歴史の記憶が語られないのは,おかしいと思いませんか・・・。
古代天皇の謎(2)
推古天皇までの33代の古代天皇の中に,かなり多くの架空の天皇が含まれていることは,まちがいありません。『古事記』にも『日本書紀』にも,神武天皇の事績は長々と記されていますが,2代から9代までの天皇(綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化)に関しては,事績はほとんど記されていません。誰々の子であるとか墓がどこにあるかといったことが簡略に記されているだけです。
この8人は,歴史の記述に欠けているところから,欠史八代といわれ,学者・研究者の多くは,架空の天皇であるとしています。初代の神武天皇にしても,東征伝説や建国神話に彩られていますが,架空の天皇とみてまちがいないでしょう。第10代の崇神は,もしかしたら初代の天皇であった可能性があります。その考証はさておき,他にも架空と思われる天皇が少なくありません。推古天皇までを33代と定めたのは「記紀」が編纂された8世紀の初めごろで,実際に初代から推古までは,15代~18代であったろうと考えられています。
なぜ天皇を増やしたのかといえば,国史(天皇紀)を編纂するに当たって,建国の年を,推古期から1200年以上も遡らせて,紀元前660年と定めたことによります。なぜ紀元前660年なのかといえば,古代中国の讖緯(しんい)暦運説に基づく辛酉(しんゆう)革命思想によります。
辛酉革命説とは,一元(いちげん=60年)ごとの辛酉年(かのととりの年)に革命が起こり,一蔀(いちぼう=21元すなわち1260年)ごとの辛酉年には国家的大変革が起こる,という思想です。
そこで,当時の天文学や暦学または陰陽思想などに通じた学者たちは,推古9年(601年)が辛酉年であることから,この年を現国家体制の基点と考え,そこから一蔀すなわち1260年遡らせた紀元前660年を建国の年に定めたのです。なお,ここでいう紀元前660年は西暦ですが,わかりやすくするために用いています。日本の暦法からいえば神武元年(皇紀元年)ということになります。
さて,推古天皇以前に1200年以上の歴史があったことにしたのはいいのですが,天皇の数が足りません。そこで架空の天皇をあれこれ加えて推古天皇までを33代とした,というわけです。ところが,それでもまだ足りません。そこで天皇の年齢を水増しし,百何十歳まで生きたということにして,辻褄を合わせたのです。『古事記』によれば100歳以上の天皇が8人,90代まで生きた天皇が2人です。
『日本書記』は100歳以上13人,80代が2人となっています。
古代天皇の謎(1)
神武天皇が即位したのは,『日本書紀』によれば,「辛酉春正月庚辰朔」ということになっています。辛酉(しんゆう・かのととり)の年の正月朔日(ついたち)に,日本の初代天皇である神武が即位し,このときから天皇家の歴史が始まった,というのです。
しかし,この年をもって「日本国家建国」としたのは,明治になってからです。明治5年(1872)政府は,「辛酉春正月庚辰朔」を太陽暦に換算して「BC660年2月29日」とし,1年後に「2月11日」に改め,「BC660年」を日本国家の紀元,「2月11日」を国民の祝日「紀元節」と定めました。
しかし,日本国家の起源,すなわち大和朝廷の成立に関しては,さまざまな説があります。少なくとも,まだ縄文時代が続いていた紀元前660年でないことは確かです。そこで昭和23年,「紀元節」は学問的に何ら根拠のない皇国史観によるものとして,廃止されました。ところがその後に復活運動が起こり,昭和41年(1966),改めて2月11日が国民の祝日「建国記念の日」となり,現在に至っています。
さて,それでは,神武以降の古代天皇について,見ていくことにします。
古代国家の骨格がしっかりと定まったのは,6世紀末から7世紀にかけての推古朝のころです。推古10年(602)には,朝鮮半島から暦法や天文・地理学などが改めて伝来し,その暦法に基づく国家(天皇家)の歴史を創っていくことになります。『古事記』『日本書紀』の編纂が完了するのは8世紀の初頭になってからですが,その間にさまざまな試行錯誤があって,天皇紀が定まっていったものと思われます。
初代神武から33代推古までの天皇は,以下のごとくです。神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古。ところがこのうち,10人以上の天皇が100歳以上生きたことになっています(「記」と「紀」で多少違いますが)。たとえば,神武天皇は「記」では137歳,「紀」では,127歳。孝安が123歳と137歳,孝元・開化は「記」で57歳と63歳ですが,「紀」だと117歳と115歳です。まだまだ何人もの天皇が100歳以上です。崇神などは「記」だと168歳,垂仁も153歳。ありえない長寿です。 さて,次回はその謎を解き明かします。
天皇陵ってなに?
謎の3~6世紀の時代を解明する手掛かりがないわけではありません。古墳です。古墳こそは,タイムカプセルであり,すでに多くが盗掘されていたとしても,まだまだ沢山の手掛かりを遺してくれていることは,まちがいありません。
ところが,畿内を中心とした重要な古墳の多くは,天皇陵あるいは皇族の陵また陵墓参考地として宮内庁が管理し,鉄条網で囲うなどして,いっさいの立入りを禁止しているのです。もちろん学術調査も認めません。明治以来の皇国史観の流れで,天皇の墓をあばくなどもってのほか,というわけです。
しかし,明治初期に,陵墓と推定されるとした根拠は,極めてあいまいです。だいたい,「記紀」に登場する推古以前の30人の天皇は,矛盾だらけで不明な点があまりにも多い。100歳以上生きた,あるいは150歳を超えて生きた,さらには200歳以上などという天皇もいます。架空と思われる天皇も少なくありません。なぜそうなったのか。「古代天皇の謎」については,次回に述べますが,それらの天皇とその係累とされる皇族の墓として,数多くの古墳が宮内庁によって押さえられているというのは,納得いきません。古墳時代の陵墓で宮内庁指定と一致するのは,先にあげた天武・持統陵と,天智皇陵だけであると,考古学者は指摘します。では他の多くの天皇陵の被葬者は誰なのか,興味はつきません。
いずれにせよ,それらの古墳の学術調査が実施されれば,古代国家成立の謎がかなり解明されることは,まちがいありません。そのことが現在の天皇家を貶しめることになる,などということも決してありません。戦前までならいざしらず,もはや万世一系を信ずる人はまずいないでしょう。むしろ,天皇家の先祖である大和大王家の歴史を明らかにし,日本国成立の謎を解明することの方が,天皇家を改めて見直し崇敬することにつながるのではないでしょうか。
天皇陵とされる古墳は,宮内庁が抱え込んで隠蔽すべきものではなく,国民共有の貴重な文化遺産であり,学界の叡智を結集して調査研究すべき遺跡なのです。
謎だらけの古墳時代
前回,宮内庁が陵墓に指定している奈良県桜井市の箸墓古墳と,奈良県天理市の西殿塚古墳の学術調査が許可されたというニュースを記しました。その結果,邪馬台国の謎が解明されるかも知れないと。しかし結果は,残念ながら何の成果も得られませんでした。学術調査を認めたというのは名ばかりで,ふだんは厳重な柵に囲まれて立ち入ることのできない墓域にちょっとだけ,学者・研究者が入ることを許されたというだけのことで,発掘調査はもちろん,石一つ拾うことも許されなかったのです。何ともばかばかしい結果で,腹が立ちます。
箸墓と西殿塚は,宮内庁の指定ではそれぞれ,孝霊天皇の皇女ヤマトトトビモモソヒメと継体天皇の皇后タシラカ皇女の墓とされていますが,考古学的には邪馬台国の女王ヒミコと,ヒミコの次の女王トヨの墓の可能性が指摘されてきました。もし発掘調査されれば,仮にヒミコの墓でなかったにせよ,謎の3世紀を解明する手掛かりが得られたに違いありません。共に3世紀の中ごろから後半にかけて造られた古墳であると推定されているからです。
日本で巨大古墳が造られるようになるのは3世紀からで,7世紀に天武・持統天皇の合葬陵を最後に消滅します。この間にいくつかの画期があり,畿内の大豪族である大和の大王家が,大和朝廷を成立させて,古代王権を確立します。そして,6世紀末の推古朝のころから,国家としての体裁が整い,大化の改新を経て律令国家となって,天皇家が確立されることになります。 この3世紀から7世紀にかけては,古墳時代とも呼ばれてます。巨大な前方後円墳や円墳が盛んに造られたからです。しかし,この間の歴史はかなりあいまいです。文献がないのですから,やむをえません。『古事記』『日本書紀』という,日本国の歴史を記した文献が登場するのは,8世紀になってからです。その「記紀」に記された「歴史」も,6世紀末ぐらいからはともかく,それ以前は伝承や創作によるもので,とても史実とはいえません。邪馬台国が登場し,大和朝廷が確立されるまでの,すなわち日本国の成立にかかわる3~6世紀の時代は,謎だらけなのです。
箸墓古墳
西殿塚古墳
*この空中写真は,国土地理院長の承認を得て,同院撮影の空中写真を複製したものです(承認番号 平25情複, 第64号) ホームページ内に記載されている情報及び画像の無断転載を禁止します。複製する場合には,国土地理院の長の承認を得なければならなりません。