Fujiwara

使用済み切手の寄付

当社では、社会貢献活動の一環として、使用済み切手の寄付を行っています。
寄付された使用済み切手は、収集家に買い取られ、その金額がアジア・アフリカの看護学校や助産師学校の教材費や実習費などの一部にあてられています。

切手収集といえば、未使用の切手が対象だと思っていましたが、消印を目当てに集めている人もいるそうです。消印には郵便局名と日付が入っています。
好みの郵便局や特別な記念日の消印を探している人がいるのかもしれません。ためしに、自分の名字で郵便局を検索したら、全国に9件もありました。
また、記念切手の発行に合わせて期間限定で使用される特別な消印もあるようで、消印の世界も奥が深いですね。

#SDGs

ちはやぶる日本史を更新しました

ちはやぶる日本史を更新しました。「大飢饉で大くの餓死者が出る

大飢饉で大くの餓死者が出る

 「享保の飢饉」は,享保17年(1732)に畿内以西を襲った大飢饉で,天明・天保の飢饉と併わせて,江戸の三大飢饉と呼ばれています。
 餓死者はおよそ1万2千人,同じく餓死した牛馬は,1万4千匹にのぼりました。
 享保17年は,前年の冬以来天候が不順で,暖冬でしたが春になると雨の降る日が多く,夏になっても冷雨が続きました。その上,各地で洪水や,逆に水不足による田畑の荒廃が目立ちました。
 低温によって作物の成育は悪く,それに誘発されて虫害が起こったのです。飢饉の原因は,多くは虫害によるもので,作物の出来が例年の半作以下だった藩は,46藩に及んだといいます。虫害を起こした虫の種類は,『草間伊助記』によれば,
 「此虫,後に大きに相成りこがね虫の如く(中略),形ち甲冑を帯しるやうにありて,一夜の中(うち)に数万石の稲を喰ひ,田畑夥敷(おびただしく)損毛有之(そんもうこれあり),士民飢渇に及び,西国筋より五畿内大坂辺迄(おおさかあたりまで)道路に倒れ候もの数しれず……」
 とあります。また幕府の公式文書にも「蝗」の文字が頻出し,蝗害(こうがい)すなわち蝗(いなご)による虫害であったことが判ります。
 もっとも被害が大きかったのは伊予松山藩(15万石)で,それ以前5ヶ年平均で12万石を超える年貢収入があったのに対し,この年は皆無で,飢え死にしたもの3489人,斃死した牛馬は3097匹に及んだといいます。このため藩主の松平定英は,「備えが不充分であった」として,幕府への出仕を停止させられています。
 幕府の対応は素早く,すぐさま勘定所役人を現地に派遣し,勘定吟味役の神谷久敬を大坂へやって,救済の総指揮をとらせています。救援方法としては,被害のなかった東山,東海,北陸諸藩などの米を西国に回送するとともに,幕府自身も多くの救援米を送り,鹿児島藩など,蝗害のひどかった大名地に,それぞれの石高に応じて恩貸金を与えるなどです。この飢饉は大規模なものでしたが,幸いにして翌年は豊作であったため,一年で収まりました。
 しかし,この飢餓が社会に与えた影響は大きかったのです。享保18年正月26日,江戸で最初の打ちこわし「高間騒動」が起こります。本来江戸に入るべき米の一部が,救援米として緊急輸送されたため,困窮した日稼ぎなどの細民が,江戸の米問屋を襲ったのです。襲われたのは,高間伝兵衛の江戸日本橋店です。伝兵衛は,江戸米問屋八人組の筆頭で,かねてから,米の買占めなど暗躍していると噂のあった米穀商でした。
 また幕府は,享保19年正月,天領における定免破免条項を改訂し,同3月には諸国産物帳を令しています。それは丹羽正伯(しょうはく)に命じて諸国の産物を調べさせたもので,諸国に産する穀類はもちろん,すべての産物に及び,そのほとんどに「人食す」「人不食」「能書不知」など註釈が入っています。またその産物は,菌類,木類,魚類,鳥類,虫類,蛇類等あらゆる産物に及んでいました。また,享保17年12月,飢餓等によって社会不安が激化した場合,代官所の役人では対応できない非常に備えて,あらかじめ江戸に伺うことなく,近隣大名の兵力を借りることを認めるという布達も出しています。それまで諸大名は,幕府の許可なしには一兵も動かすことができなかったのです。なお,この飢餓を機に,害虫防除への関心が高まり,鯨油を用いてウンカを駆除する方法等が広まったのでした。

編集者のひとりごとを更新しました。

編集者のひとりごとを更新しました。「ベテルギウスの大きさは(  )の公転軌道と同じくらい

新刊の主な実績を更新しました

新刊の主な実績を更新しました。

2022年 日本編集制作大賞の教材部門賞を受賞しました

2022年 日本編集制作大賞の教材部門賞を受賞しました。受賞作品:『思考力トレーニング 算数・国語』小学1年生~小学6年生(発行/株式会社 くもん出版 様)

ちはやぶる日本史を更新しました

ちはやぶる日本史を更新しました。「吉宗,小石川療養所を設立

吉宗,小石川療養所を設立

 徳川幕府が,小石川薬園(東京都文京区)内に,総合病院である養生所を設立したのは,享保7年(1722)12月のことです。町医者小川笙船(しょうせん)による施薬院(せやくいん)建設の建白(けんぱく)を幕府が採用したのは,この年の正月のことでした。
 笙船が建白したこの養生所,じつは単なる施薬院(病院)ではありません。普通では医師に看(み)てもらうことのできない,極貧の病人たちのための施設なのです。
 小川笙船は,寛文12年(1672)に生まれた江戸時代中期の町医者です。建白書を幕府に提出したときには,満年齢で50歳でした。もともとは近江(滋賀県)の人でしたが,笙船の代に江戸に出て小石川で開業し,幕府に養生所建設を建白したのです。施薬院を設けて貧しい病人を救うという意見が幕府当局によって採用され,幕府が管理運営する小石川薬園内に施薬院が開設されて,養生所と名づけられたのです。
 杮葺(こけらぶき)の養生所を中心に,病人長屋,薬煎(やくせん)室,薬部屋,薬調合室,役人詰所,中間部屋,台所,物置からなる結構な病院施設です。しかし,この病院施設,一般の人は看てもらうことができません。対象となるのは,看病人のいない極貧の病人だけで,いっさい無料です。
 設立時の収容人数は40人,あとは通い治療です。しかし翌年から,通いの治療は廃止されました。ただで病気を治してもらえるというので,通院者が増えて大変だったからです。それでも入院者は多く,享保18年(1733)には117人となり,以後,117人が定員となりました。逗留期間は8カ月です。江戸町奉行の支配下にあって,与力2名,同心10名が,運営にあたりました。設立当時の医師は,寄合医師と小普請(こぶしん)医師の2名で,小川笙船が肝煎(きもいり),すなわち院長でした。
 享保8年以降,本道・外科・眼科の本勤が5名,それに見習医師も加わりました。
 なお,養生所が開設されたときの江戸町奉行は,大岡越前守忠相(ただすけ)です。
 幕府直営の小石川薬園の起源は,寛永15年(1638),江戸城の南北,品川と牛込(うしごめ)に薬園が設けられたのに始まります。北薬園は,牛込薬園また大塚薬園とも呼ばれ,小石川音羽(おとわ)の地(東京都文京区)に設けられました。いっぽう南薬園は,麻布広尾(あざぶひろお=東京都港区)に造られ,麻布薬園また品川薬園といわれました。
 その後,北薬園は,天和元年(1681),この地に護国寺が創建されることになって,薬草木は,南薬園に移され,小石川薬園と称されることになります。以後,小石川薬園は,明治維新まで,薬用植物の栽培と生薬(しょうやく)の供給に,大きく貢献したのでした。なお,園地は東西各四千八百坪。青木毘陽が東側の薬園に甘藷(かんしょ=さつまいも)を試作したのは,享保20年(1735)のことでした。
 明治元年(1868),小石川薬園は東京府の所轄となり,その後所轄が転々としますが,明治8年に文部省博物館の所轄となって,小石川植物園と改称され,次いで東京大学の付属となり,教育・研究用の植物園となって現在に至るのです。
 なお養生所は,慶応元年(1865)江戸町奉行の支配を脱し,明治元年に鎮台府の管轄にかわり,貧病院と称しますが,間もなく廃止されました。

カルチャーだよりを更新しました

カルチャーだよりを更新しました。「ランチ会を行いました

新刊の主な実績を更新しました

新刊の主な実績を更新しました。

ランチ会を行いました

朝晩の冷え込みが強くなり,冬の到来を感じる季節となりました。

新型コロナウイルスの感染状況が落ち着いてきたこともあり,10月末から11月初めにかけて,社内のワーキンググループごとにランチ会を行いました。

地域のおしゃれなイタリア料理店で,パスタやデザートをいただきました。 普段の業務ではなかなか交流ができない他教科の社員ともコミュニケーションをとることができ,大変有意義な時間となりました。

#WG

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ちはやぶる日本史を更新しました。「絵島生島事件