月: 2022年11月

土偶は(  )をかたどったもの

土偶は何をかたどったものかご存知でしょうか?
一般的に女性像が多く,呪術に用いられたと言われていますが,
一方で,巷には様々な説が飛び交っています。
中には宇宙人だとする説まで。

そんな中,土偶は植物をかたどったものだとする本が出ました。
私もこの本を紹介する記事を目にしました。

土偶と言っても色々な種類があるのですが,

遮光器土偶のイラスト

これを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

遮光器土偶です。
興味がある方はぜひ写真を検索してみてください。
ミステリアスな風貌をしていますね。

植物説によると,この遮光器土偶はサトイモをかたどっていると言われているようです。

サトイモ

ジャガイモもそうですが,サトイモも土中でいくつも連なって実ります。
そう言われてみると,
遮光器土偶の頭,大きな両目,太く短い腕・脚,根のような手・足…
サトイモに見えなくもない気がします。

他のものはどうでしょう?

中空土偶

中空土偶

栗

ハート型土偶のイラスト

ハート形土偶

割られたクルミ

クルミ

画像を検索していただけるとよいのですが,
顔の形が栗やクルミに見えます。
非常に興味深いですね。

土偶の由来についてはもちろん諸説ありますが,
この植物説から見ると,
ミステリアスでどこか怖い印象もあった土偶が
かわいらしく思えてきました。

長野県には特徴的な土偶が展示されています。

仮面の女神のイラスト

仮面の女神

これは逆三角形の仮面をつけているような不思議な顔をした土偶です。

仮面の女神については本の紹介記事には書かれていなかったので私の思い付きにすぎないのですが,三角形からソバの実を連想しました。長野県の蕎麦は有名ですね。

ソバの実

ソバの実

まだまだわからないことも多い土偶ですが,
当時の人は,植物をかたどって作ったこれら土偶に,
また実りをもたらしてくれるよう願いを込めたのかもしれません。

社会科担当にも聞いてみました。

テレビや雑誌などで縄文時代についての特集をみることが増えています。はるか昔の未知なる生活に興味がわいているのかと思います。
そのようななかで,土偶は植物をかたどったものだったという本を読みこれはすごい!と個人的に思いました。正解はまだ現時点ではわかりません。。。

歴史は常に更新されています。
子どもも大人も楽しめるのが歴史だと思います。
みなさんもたまには教科書や歴史の本を読んでみてください。学生時代に習った内容とかわっているかもしれません??

――社会科担当Sさん

皆さんはどう思われますか?ご意見いただけますと幸いです。
〈英語担当S〉

#土偶 #社会

絵島生島事件

 江戸城大奥には,多いときで,およそ千人の女性が居住していたといいます。大奥は,江戸城本丸の一郭を占め,将軍の正室(御台所=みだいどころ)および側室たちが居住し,将軍の居室である中奥と,お鈴廊下と呼ばれる長い廊下で結ばれていました。ただし,この廊下を通って大奥へ行くことのできる男性は,原則として将軍一人に限られていたのです。だから,もし大奥で子供が生まれれば,すなわち将軍の子とだということになります。
 絵島は,天和元年(1681)に,江戸で生まれたといわれています。美人で才気煥発(さいきかんぱつ)。二十四歳のとき,六代将軍家宣(いえのぶ)の側室左京の局(後の月光院)の女中となって大奥に入りました。そして左京の局が将軍家宣の胤(たね)を宿し,出産のときにはその係として,御年寄という重職に取り立てられたのです。御年寄は,すなわち大奥の女中頭のことです。江戸城大奥を総轄するトップの地位にのぼったということです。このとき絵島三十三歳,まだまだ美貌の女盛りでした。
 このころ,幕政を左右していたのは,家宣の寵臣であった間部詮房(まなべあきふさ)と在野の学者新井白石,それに月光院でした。譜代の重臣たちにとって,面白いはずがありません。家宣の正室であった天英院は,京都の五摂家の一つ近衛(このえ)家の出です。天英院にしてみれば,月光院はたかが町家の娘にすぎません。それが権勢を振るうなど,許すべからざることなのです。
 家継は詮房によくなつき,詮房が帰ろうとするといやがったので,詮房はつい,大奥の月光院の部屋に長居することが多かったといいます。こうしたことは,天英院はじめ他の側室たちにとって,大いなる妬(ねた)みとなりました。詮房と月光院との間の,見てきたような醜聞が言いふらされたのは,やむをえません。しかし,絵島も月光院も詮房も,めげるどころか,ますます権勢を誇っていったのです。悪くいう者がいる一方で,すり寄ってくる者も多く,ことに絵島のもとには,大奥出入りの業者をはじめ多くの者たちが,その権勢の傘の下に入ろうと集まってきました。
 とはいえ,嫉妬と陰謀の渦巻く女だけの世界です。人世の充足感,幸福感は望みえなかっでしょう。奥女中たちの最大の楽しみは,宿下(やどさが)りであったといいます。すなわち外出を許す日です。奉公三年目で,やっと年に六日の宿下りが与えられました。このほか,上級のものたちは,年に何回か主人の代参で寺社に行くなど,公用による外出がありました。
 外出は一日限りで,外泊は許されませんでした。しかし,公用はほとんど午前中で,午後六時に御錠口(おじょうぐち)が閉まるまでの間は,自由でした。そのアフタータイムの最大の楽しみは,芝居見物であったといいます。
 正徳四年(1714)正月,絵島は月光院の命で,芝増上寺の将軍家法会に代参することになりました。同じく大奥の年寄宮地(みやじ)も,上野寛永寺に代参しました。それぞれの一行は,代参をすませたのちに落ち合い,木挽(こびき)町の山村座へ観劇に行きました。山村座での主演は,人気絶頂の和事(わごと)役者,生島新五郎です。和事とは恋愛・情事のことです。桟敷席には酒肴が運ばれ,幕間には生島をはじめスターたちが次々にやってきて接待したといいます。
 絵島は羽を伸ばし,帰城したのは門限ぎりぎりでした。酔った女中たちの嬌声が響き,吐いたりした女中たちもいました。このことは絵島失脚を狙う一派に,絶好の口実を与えることになったのです。特定の業者と癒着したり,代参に名をかりて役者遊びをしたりするなど,言語道断だというわけです。
 結局絵島は,高遠の内藤家に預けられ,囲屋敷で,一汁一菜の食事が朝夕二回だけ。近くの寺院への寺参以外は一歩も屋敷を出ることが許されませんでした。墨や筆さえも与えられなかったといいます。絵島はそうした境遇のもとで,ひっそりと二十八年間を生き,寛保元年(1741)四月,六十二歳の人生を終えました。生島新五郎は,絵島の死んだ二年後,赦免となって江戸に戻りました。七十二歳。往年の人気役者を知る者は少なく,翌年,さびしく亡くなったといいます。
 現在,高遠城の一郭に,絵島の囲屋敷が復元されている。その片隅に,絵島・生島の比翼塚があります。

編集者のひとりごとを更新しました。

編集者のひとりごとを更新しました。「土偶は(  )をかたどったもの

ちはやぶる日本史を更新しました

ちはやぶる日本史を更新しました。「絵島生島事件

八百屋お七の放火事件

 「火事と喧嘩は江戸の華」。江戸ッ子は気が短かく,喧嘩騒ぎは日常茶飯事です。「てやんでい」「べらぼうめ」,とはいえ,翌日にはケロッとして,喧嘩相手と酒を飲んでいたりします。
 その喧嘩と同じくらい,火事も多くありました。特に冬は,暖を取るためもあって火をよく使いました。当然のことながら,先火が少なくありません。空気が乾燥しているうえに,北西の季節風が吹きます。さらに,江戸の町は大名屋敷を除き,密集していて,町屋のほとんどは木と紙でできていました。屋根も板葺きか,茅葺き・藁葺きが多かったのです。
 町屋の多くが瓦葺きとなり,火除(ひよけ)地などが造られるようになったのは,大岡越前守忠相(ただすけ)が江戸町奉行に赴任して以来のことでした。
 享保元年(1716年)8月,徳川吉宗が第8代将軍となりました。翌享保2年の1月,江戸は大火に見舞われます。将軍の膝元である江戸の町の復興と治安維持,景気回復が急務となりました。2月,吉宗は,江戸町方の行政官のトップである江戸町奉行に,大岡越前守忠相を任じます。41歳,異例の出世でした。
 忠相は,吉宗の期待にたがわず,いかんなくその実力を発揮します。享保の改革です。
 忠相がもっとも力を入れたのは,江戸の町を火災から守ることでした。それまでの江戸の町屋は,前述したようにほとんどが茅葺きか藁葺き,あるいは板葺きでした。忠相は瓦屋根を奨励し,半ば強制的に瓦屋根の町並みをつくりました。いっぽう,延焼をおさえ,消火活動をしやすくするために,火除地もつくりました。神田にあった護持院が消失すると再建をゆるさずに,その跡地を空地のままにして,火除地にしたことは有名です。
 同時に忠相は,消防組織を新たにつくりました。いろは47組の町火消の制度です。もっとも「へ組」「ら組」「ひ組」は語呂(ごろ)が悪いので省き,代わりに「百組」「千組」「万組」としました。彼らは,いったん火事が発生すると,まといを持ち先を争って現場に駆けつけ,命がけで消火活動にあたりました。やがて,町火消の男衆は,江戸ッ子を代表する花形スターとなりました。
 もっとも町火消が活躍するのは,19世紀になってからです。大名火消が設けられたのは,江戸最初の大火である桶町火事(寛永18年=1641年)の翌々年,さらに定火消の制が創設されたのは,振袖火事として知られる明暦の大火(明暦3年=1657年)の翌年(万治元年)のことでした。
 火事にまつわる話はいろいろありますが,もっともよく知られているのは,八百屋お七の放火事件ではないでしょうか。お七は,生きたまま火あぶりの刑,すなわち火刑に処せられました。天和3年(1683年)3月29日のことです。いきさつは,こうでした。
 本郷丸山の八百屋の娘お七は,天和元年の火事で家を焼き出され,一家で駒込の吉祥寺に寄宿しました。ここで,寺小姓の美男吉三郎とデキてしまいます。お七は心身共に激しく燃え上がります。ですが,家の新築が成ると,家に帰らなければならなりません。すなわち吉三郎とは別れなければならないのです。そこでお七は,あさはかにも,新築成った我が家に火を付けてしまいます。家が燃えれば吉三郎に会えると。
 しかし待っていたのは放火の刑でした。放火は最重罪です。かくてお七は,生きたまま火あぶりの刑に処せられたのでした。

新刊の主な実績を更新しました

新刊の主な実績を更新しました。

10月27日(木)に地域の中学生6名が企業訪問に来てくれました。

編集プロダクションが、どのような仕事をしている会社なのかを現役の生徒さんに説明できたことはとても有意義でした。
校正の仕事の体験をしてもらったところ、みんなでここが違う、ここも違うなど、和気あいあいと楽しく作業していました。
もしかしたら、この6名の中から未来の編集者が生まれるかもしれません。

#職場体験

カルチャーだよりを更新しました

カルチャーだよりを更新しました。「10月27日(木)に当社の地域の中学生6名が企業訪問に来てくれました。

ちはやぶる日本史を更新しました

ちはやぶる日本史を更新しました。「八百屋お七の放火事件