月: 2023年3月

江戸時代最大の大水害

 徳川幕府による支配体制は,250年間に及びました。江戸時代です。その間,初期には島原の乱や大坂の役があったものの,概(おおむ)ね平和な時代が続き,武家文化,町人文化が栄えました。徳川氏の居城江戸城を中心に,江戸の町には多くの人びとが居住し,様ざまな文化が花開いたのです。
 とはいえ,常に江戸の町が平和であったわけではありません。避けようのない災害,すなわち天災が,少なからず江戸市民たちの生活を脅かしました。ここでは,水害を見ていきたいと思います。とりあえず,江戸時代を通じて忘れることのできない9つの水害を挙げることにしましょう。
 延宝8年(1680年)の水害。8月5日の夜半より大暴風雨となり,6日の昼ごろから倒壊する家屋が続出しました。さらに午後2時ごろに津波が襲って,本所(ほんじょ)や深川,築地(つきじ)のあたりに大きな被害が出ました。溺死者700人,20万石の米が水に流されたといいます。
 宝永元年(1704年)の水害。6月半ばからの大雨で,7月3日に利根川猿が股の堤防が決壊。葛西一帯から亀戸,本所,深川,浅草方面が水びたしになりました。
 寛保2年(1742年)の水害。江戸第一の水害といわれています。7月28日以来の大雨に加え,8月1日2日と大暴風雨に。関東郡代の伊奈氏が,江戸を救うために猿が股の上流で堤防をきり,水を葛西に流しました。このため江東方面は水びたしとなり,綾瀬(あやせ)や千住三丁目の堤防もきれ,浅草から下谷(したや)一帯まで泥の海と化しました。8月いっぱいの幕府の炊き出しは,延べ18万6千人分に達したといわれています。
 安永9年(1780年)の水害。6月20日ごろから利根川,荒川の増水で江東方面が水びたしとなり,両国橋,永代橋,新大橋が決壊して大騒動となりました。
 天明6年(1788年)の水害。7月12日夜から大雨。18日になってもやまず,大洪水に。江東地帯は,寛保の水害の時より四尺(1.2メートル)深く水が出たといわれています。
 寛政3年(1791年)の水害。8月以来の雨で隅田川が増水し,新大橋,大川橋が決壊。9月4日に大暴風雨,さらに深川,築地,芝浦方面を津波が襲い,大災害となりました。
 享和2年(1802年)の水害。6月来から7月上旬にかけての大雨で権現堂堤がきれ,綾瀬川が氾濫し,葛西方面から本所,深川にかけて大被害が出ました。
 弘化3年(1846年)の水害。6月中旬以降の大雨で,28日,川俣村の堤防が決壊。30日以降,浅草,本所,深川から葛西一帯が水びたしとなり,「巨海の如し」という惨状になりました。
 安政3年(1856年)の水害。8月25日に大暴風雨となり,永代橋,新大橋,大川橋が決壊。本所,深川方面は出水によって被害が甚大になりました。また風による被害も大きく,特に佃島(つくだじま)の被害は大きかったといわれています。
 以上のうち,寛保2年,天明6年,弘化3年の水害が,江戸の3大洪水といわれています。
 なお,当初隅田川は,利根川がとうとうと江戸湾に流れ込んでいて,文字通り坂東太郎の名にふさわしい様相でした。ですが,2代将軍秀忠の時代から3代家光の時代にかけて,関東郡代伊奈氏の手によって,大規模な改修工事が行なわれ,ついに荒川筋を移しかえて,利根川を銚子口に流すようにしたのです。江戸市街地の発展と,水害をなくすことによって,埼玉一帯を肥沃な田地とするためでした。その上,荒川筋の本流が上流で入間川筋にきりかえられたので,事実上隅田川は入間川筋となりました。このことによって,今日に至ってなお,一朝危機あるときは利根川筋の水は,一挙に東京を目指して押し寄せるのです。
  隅田川は何百年もの間,時に荒れ狂って,江戸の市民,すなわち江戸ッ子たちに,少なからぬ被害を与え続けてきたのです。

3/16,おかげさまでカルチャー・プロは創立48周年を迎えました。

その創立記念日に,当社では「ワーキンググループ活動報告会」が行われました。
昨年4月,「外部スタッフ拡充推進グループ」「業務効率化推進グループ」「自社教材作成グループ」「ブランディング・広報推進グループ」の4つのワーキンググループに分かれ,活動がスタートしました。
各グループで課題を洗い出し,1年後までのアウトプットに向けて活動方針を定め,話し合いを重ねました。
報告会では,各グループより1年間の成果が報告されました。

成果の一つに,ブランディング・広報推進グループによる,名刺の裏面活用があります。

これまで名刺裏面は空白だったのですが,新たに「教科」「対象」「ホームページのQRコード」を追加しました。
主要5教科のほか,実技教科や資格検定ものも扱っていること,幼児~社会人までと幅広い学習者層に対応した教材を編集できることといった当社の強みをアピールすることができるのではないかと思います。また,QRコードを載せることで,昨年7月にリニューアルした当社のホームページへも,アクセスしていただきやすくなりました。
ぜひ,名刺を交換させていただく際には,リニューアルした当社の名刺をご覧いただけると嬉しいです。

それぞれのグループが1年間で成果を出し,社長からは「想像以上だった」という言葉がありました。今後はその成果を活用・改善し続けていくことや,残された課題を解決していくことが必要となります。時代の変化に柔軟に対応できる編集者であり続けるべく,自主的・主体的に考え,アウトプットをし続けていきたいと思います。
49年目のカルチャー・プロを,どうぞよろしくお願いいたします。
#WG

ちはやぶる日本史を更新しました

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カルチャーだよりを更新しました

カルチャーだよりを更新しました。「3/16,おかげさまでカルチャー・プロは創立48周年を迎えました。

面白き こともなき世をおもしろく (  )ものは心なりけり

司馬遼太郎『竜馬がゆく』での高杉晋作の最期の描写をご紹介します。
結核の病状がいよいよ重くなった高杉が、辞世の句をよもうと筆をとります。

「面白き、こともなき世を、おもしろく」
辞世の上の句をよんだ。下の句に苦吟していると、看病していた野村望東尼が、
住みなすものは心なりけり」
と詠んだ。高杉はうなずき、
・・・面白いのう。
と言って静かに眠った。それが高杉の最期であった。

(文春文庫『竜馬がゆく』表記ママ)

天才革命家として破天荒な活躍をした高杉ですが、
27歳という若さで病没しました。
野村望東尼とは、高杉らの討幕運動を支援した幕末の女流歌人です。

私は詩歌の心得などはまったくありませんが、
高杉らしい「やんちゃ」な上の句に対して、
望東尼が優しく、かつ風雅に下の句を呼応させるという描写が印象的でした。

国語担当にも聞いてみました。

(彩る)ものは心なりけり でしょうか。
心持ち次第で極彩色の毎日が送れ…たらいいな、と思っております、はい。
「色取る」とも書けますが、個人的には「彩る」のほうが
字面が可愛くて好きです。

ちなみに「彩」は中学学習漢字ですが、
「いろど-る」は中学では学習しない読み方です。
無理やり国語担当ぽい豆知識を入れ込んでみました。

――国語科担当Kさん

編集者としては、
「面白き」「おもしろく」、
「上の句をよんだ」「と詠んだ」などの
閉じ開き表記の不統一も気になるところです。

一読者としてはこれも味に思えます。

皆さんはどのような下の句を思いつかれたでしょうか? ご意見いただけますと幸いです。
〈英語担当S〉

桜と鶯

#国語 #俳句 #短歌 #小説

編集者のひとりごとを更新しました。

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ちはやぶる日本史を更新しました。「幕府,尾張藩主徳川宗春を監禁

幕府,尾張藩主徳川宗春を監禁

 徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の重臣5人が,江戸城に召喚されたのは,元文4年(1739)1月12日のことでした。そこで彼らは,時の将軍徳川吉宗から,次のような厳しい命を受けました。
 「尾張藩主徳川宗春(むねはる),行跡よろしからず,よって隠居謹慎すべし」
 御三家筆頭ということは,俗にいう徳川三百藩のトップに位置します。その尾張藩の長が謹慎させられたのです。まさに未曽有の大事件でした。ですが,各大名家の動揺も世間の評も,さして大きなものではありませんでした。むしろ幕府の動きは遅きに失するという評の方が少なくなかったのです。というのは,宗春の行跡にいろいろ問題があったからです。
 元文4年の時点で,宗春は44歳,藩主に就任して9年目でした。いっぽう徳川吉宗は56歳,将軍職に就任してより23年の実績を積んでいました。ですが宗春は,何かと将軍吉宗に楯つくのでした。将軍が吉宗でなければ,尾張藩は取り潰し,宗春は死罪ということになっていたかもしれません。
 もともと紀州藩から入って将軍となった吉宗と,尾張藩との間には,遺恨があったとされています。正徳6年(1716=享保元年)4月,7代将軍家継(いえつぐ)が,わずか8歳の若さで病没しました。家継に子供がいるはずはなく,将軍候補は御三家の3人にしぼられました。
 筆頭が尾張藩の徳川継友(つぐとも)26歳。
 次席が紀州藩の徳川吉宗33歳。
 末席が水戸藩の徳川綱條(つなえだ)61歳。
 当時幕府は,極度の財政困難にあえいでいました。これを立て直すには,紀州藩の財政再建に成功した吉宗しかいない,という評判が強かったのです。しかし内意を受けた吉宗は,
 「年齢と家格から申せば綱條殿,家格から申せば継友殿」
 と自らの将軍位を固辞したといいます。しかし,尾張継友には浅慮粗暴の噂があり,藩主としての経験も乏しく,実績は無いに等しかったのです。また,綱條は還暦を越えており,いい年でした。
 結局,8代将軍には吉宗が決まりました。尾張藩は,つい近年の三年の間に,吉通(よしみち),五郎太と藩主が連続して急逝していました。尾張藩ではこれを,将軍位を望む吉宗と紀州藩の陰謀ではないかと……。
 吉通は,6代将軍であった亡き家宣(いえのぶ)の信任が厚かったので,もし長生きしていれば,8代将軍は,尾張吉通ですんなりと決まっていたであろうと思われます。しかし吉通は,家継の在任中に,25歳の若さで急死してしまいます。尾張藩にとってみれば,まことに惜しむべきことでした。とはいえ,吉宗による暗殺説には無理があります。
 吉通の子の五朗太は,僅か3歳で藩を継いだものの,間もなく亡くなってしまいます。継友も享保15年(1730),39歳で病没しました。こうして尾張藩の家督を継いだのが,宗春でした。
 ですが,尾張藩の財政も逼迫(ひっぱく)していました。しかも複雑な派閥の状況下にありました。というのは,吉通には39人もの子があり,それぞれ母親が違いました。早世した子が少なくなかったのですが,それでも複雑な派閥が構成されていました。宗春は20男で部屋住みの身です。藩主を継げる位置ではありません。やっと陸奥梁川(やながわ)3万石の大名になれたのが34歳のとき,そしてこの年,本家の継友が急逝したため,何と思いもかけず尾張藩主となったのでした。
 当時,幕府財政および各大名家の財政は逼迫しており,いずれも質素倹約を旨としていました。しかし宗春は,豪華・華美な藩政を貫くのです。祭りも奨励し,芝居小屋や遊里を許し,自らも白牛にまたがり5尺(1.5メートル)もある大煙管(きせる)をくゆらせて城下を練り歩きます。結局尾張藩は内部崩壊し,宗春は吉宗によって名古屋の下屋敷に幽閉されました。しかし25年間監禁生活を送りつつ,宗春は明和元年(1764年)69歳まで生きました。ですが,死後も墓石は金網におおわれていたといわれています。

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