江戸時代を再検討する Ⅰ

江戸時代を再検討する Ⅰ

岡本大八事件と有馬晴信

 岡本大八は,本多正純の与力(よりき)で,キリシタンでした。洗礼名はパウロ。本多正純は徳川家康の側近で,幕府の実力者です。


 岡本大八事件とは,慶長14年(1610)12月,キリシタン大名の有馬晴信が,長崎港外でポルトガル船を撃沈しますが,その恩賞斡旋にかこつけて,岡本大八が多額の金品を詐取した事件です。
 晴信のポルトガル船撃沈は,もちろん家康の許可を得てのことです。すでに江戸幕府は成立しています。晴信はこの働きに対して,当然,幕府から恩賞があるものと信じていました。
 岡本は一大名の家臣でしかありませんが,その大名が幕府随一の実力者本多正純となれば話は別です。その岡本が,晴信に,約束したのです。晴信の旧領であった肥前(長崎県・佐賀県)藤津・彼杵(そのき)・杵島(きしま)の三郡を晴信に賜わるよう幕府に斡旋すると。そして晴信から多額の賄賂を受け取るのです。
 ところが,幕府からは何の音沙汰もありません。大八に問いただすと,大八は幕府の朱印状を晴信に渡します。ところが,この朱印状は偽造したものであったのです。
 事件の発端は,慶長17年春,有馬晴信が,家康の側近本多正純に一通の書状を出したところから始まります。書状は,岡本大八より旧領返還の朱印状を得ていますが,いつこれを実施してくれるのですか,というものでした。
 有馬晴信は,大友義鎮(宗麟)や大村純忠らと共に,天正少年遣欧使節団をローマに送った人物で,戦国の勇将としても知られていました。しかし,晴信から書状を受け取った本多正純には,一体何のことか訳が解りません。そこで大八を呼んで直接問いただしましたが,大八は,身に覚えがないことであると言い張りました。しかし調査の結果,晴信の言い分に理がありました。そこで,晴信と大八が駿府へ呼び出され,両者の言い分が述べられましたが,結果は大八が,朱印状まで偽造したことを白状し,この事件に幕が下りました。しかし正純に大きな汚点を残したのでした。
 慶長15年3月21日,岡本大八は駿府城下を流れる安倍川の河原で,火あぶりの刑に処せられました。晴信はその翌日,甲斐国の都留(つる)郡に配流されたあと,5月6日に切腹させられて没しました。
 しかし,これでこの事件が終わったわけではありません。家康は,有馬晴信と岡本大八が共にキリシタンであることを知ると,大八が処刑されたその日に,京都や長崎,有馬地方などにキリシタンの禁制を命じたのです。また旗本の中にもキリシタン信徒がいて,なかには火あぶりの刑に処せられたものもいました。さらに,家康の愛妾のひとり阿滝(おたき)の方も大島に流罪となりました。彼女は朝鮮貴族の出身で,絶世の美女であったといいます。洗礼名はジュリア,家康は島役人に,もし彼女に改宗の気持がみえたら,すぐに駿府へ戻すようにと命じたといいます。
 ともあれ慶長18年12月,家康は再度キリシタン弾圧を行い,同年末に,公式に「伴天連(ばてれん)追放令」を全国に布告しました。これにより,日本国中のキリスト教の教会が焼き払われ,キリシタン信徒は徹底的に弾圧されて,沈黙しました。復活するのは幕末になってからです。

大坂冬の陣へ,鐘名事件

 徳川秀忠に将軍職を譲り,駿府に隠居しとはいえ,家康こそが揺るぎのない天下人でした。しかし,その家康にとって,唯一心配事がありました。大坂城に君臨する豊臣秀頼の存在です。太閤秀吉の遺児である秀頼の存在は,決して小さなものではなかったのです。秀頼を立てて徳川幕府と対抗しようという,旧豊臣方大名たちが,少なからずいたからです。
 そのうえ秀頼は,太閤秀吉が貯えた莫大な財産を有していました。大坂城の地下には,金銀がうなっていたといいます。財力はイコール兵力でもある。どれだけの兵が集められるかには,財力がかかっているのです。
 家康は何とかこの金銀を消費させようと,秀頼に寺社の造営や修理をすすめます。山城国(京都府)や大阪,近江(滋賀県)を中心に,秀頼造営の寺社が数多くあります。かなりの金銭が必要であったと思われますが,大坂城の蓄財はびくともしませんでした。そこで家康は,方広寺(ほうこうじ)大仏殿の再興を秀頼にすすめます。
 方広寺大仏殿は,慶長元年(1596)に地震で破壊されたままになっていたものを,慶長7年に再興にかかりました。しかし,完成直前に失火によって灰燼(かいじん)に帰してしまいました。家康が人をつかって放火したのではないかとも噂(うわさ)されました。そして慶長13年,家康は秀頼に対して,再び造営をうながします。太閤殿下の冥福のため,豊臣家の隆昌と秀頼の武運長久を祈るため,というのが造営の理由です。しかし,豊臣家の財源を減らすことが目的であることは,いうまでもありません。
 この事業で膨大な経費がかかり,「太閤御貯えの金銀払底」と『当代記』に記されているほどです。さすがの豊臣家も,財産の多くを遣い果たしてしまったのです。取りあえず家康の目的のひとつは叶いました。あとは豊臣家とどう戦うかです。理由もなくいきなり攻めたのでは世間は許しません。戦いの口実をつくる必要がありました。
 秀頼が,片桐且元ら30名ほどを引き連れて上洛したのは,慶長16年(1611)のことでした。二条城で秀頼と対面した家康は,大変上機嫌であったといいます。本多正信は,「秀頼は愚鈍だと聞いていたが,なかなか賢明なお人ではないか」と語っています。それは家康も同じでした。立派で身体も大きく賢明な人物となれば,いいかえれば徳川家にとって危険な人物ということになります。この頃の落首に,つぎのようなものがあります。「御所柿は独(ひとり)熟して落(おち)にけり木の下に居て拾う秀頼」。家康はすでに老齢であり,このままだと何もせずに秀頼の天下となるだろうというのです。
 家康とすれば,至急大坂城を攻め滅ぼさなければなりません。しかし理由が必要です。
 慶長19年の夏,春に完成した方広寺大仏殿の開眼(かいがん)供養の日を迎えることになりました。その供養のありかたを巡って,幕府側は,あれこれと難くせをつけるのですが,きわめつけは,方広寺の巨大な梵鐘の鐘名でした。当時の名僧である清韓文英(せいかんぶんえい)による名文でした。それに,五山の長老たち林羅山(はやしらざん)ら曲学阿世(きょくがくあせい)の学者たちが,ケチをつけるのです。文章の中に「国家安康」と「君臣豊楽」という文言を見つけるのです。前者は国家が安泰であること,後者は君も民も楽しく,という意味にほかなりません。しかるに,前者は家康の名を分断しており,後者は豊臣氏が栄えるという意味だというのです。かくて幕府は,秀頼に難題をつきつけることになります。一大名として江戸に参勤するか,国替えしてどこかの地方の城へ行くか,母の淀殿(淀君)を人質として江戸に送るか,といういずれも秀頼というより大坂方としては飲めぬ条件です。かくして,大坂冬の陣が始まることになります。