江戸時代を再検討する Ⅱ

江戸時代を再検討する Ⅱ

明暦の大火「振袖火事」起こる

 「てやんでえ,べらぼうめ」江戸っ子は気が短い,喧嘩騒ぎは日常茶飯事でした。その喧嘩騒ぎと同様に多かったのが,火事騒ぎです。「火事と喧嘩は江戸の華」です。
 江戸に火災が多発したのには,原因があります。家屋が木と紙で造られていて,しかも急激に人口が増えたので,都市計画も何もなく,人家が密集していたからです。しかも当初は,屋根も草(藁)葺きでした。そのうえ,冬期には,乾燥した烈しい西北の季節風が吹きました。
 江戸には,諸国から食いつめた浮浪者などが集まってきます。当然,火元の取締りなどは悪く,放火なども少なくありませんでした。ひとたび火事が発生すると,大火になることが多かったのです。江戸時代を通じて,大火と教えられる火災は,80数回にのぼっています。嚆矢(こうし)は,慶長6年(1601年。家康が幕府を開いたのは慶長8年)閏11月2日の駿河町火事でした。当時,町屋のほとんどは草葺き屋根でした。このため,江戸の町のほとんどが延焼することになったのです。大火後,江戸町奉行から,町屋は板葺きとするよう達しが出ました。さらに後には,町屋の多くは瓦葺きとなり,また火除け地が造られたりしましたが,「江戸の火事」は「喧嘩」と同様,なかなか減りませんでした。
 江戸の三大大火として知られるのは,明暦3年1月の「振袖火事」,明和9年2月の「行人坂(ぎょうにんざか)火事」,文化3年3月に芝で起こった「丙寅(ひのえとら)の大火」です。
 明暦の大火は,明暦3年(1657年)正月18日から19日にかけて,江戸の各所で起こった3つの火事の総称です。第1の火災は,本郷丸山の本妙寺が火元で,大施餓鬼(おおせがき)の火に投じた振袖が燃え上がり,折からの風に乗ってあちこちに飛び火し,江戸の町の大半を焼きました。そのため,「振袖火事」と呼ばれます。もっともこれは,後年につくられた俗説で,当初のころの資料には,どこを見ても「振袖火事」の名称は出てきません。
 ともあれ,本妙寺から出火したのは,午後2時ごろでした。強風に煽(あお)られて,本郷,湯島,駿河台へと延焼し,さらに下町の神田から日本橋へと及びました。夕方になると,風向きが西風に変わり,鎌倉河岸(かまくらがし)の辺りから東に火線が移って,茅場(かやば)町,八丁堀,さらに霊岸島から佃(つくだ)島までの下町一帯を焼き尽くすことになります。このとき,霊厳寺が焼けて多くの死者を出し,また浅草橋の見付(みつけ)の門が閉じられていたため,逃げ場を失った多数の江戸市民が犠牲になりました。
 第2の火災は19日午前11時過ぎ,小石川の武家屋敷からの出火,これも強風に乗って神田から京橋,さらに新橋のあたりまで延焼しました。このとき,江戸城中に飛び火し,天守閣をはじめ,西の丸を除く多くの建物を焼失しました。以後,江戸城には,現在に至るまで天守閣がありません。大老の保科正之(ほしなまさゆき)が建てさせなかったのです。たまに将軍が登って江戸の町を見下ろすぐらいの役割しかない天守閣を再建するなら,その金を江戸の町の復興に使うべきであると。
 第3の出火は麹町(こうじまち)5丁目の町屋が火元で,東に延焼して,外神田から西の丸下の大名屋敷を総なめにし,日比谷から愛宕下,芝方面におよび,やっと火がおさまったのは,20日の朝でした。被災地は,現在の千代田区と中央区のほとんどで,当時の江戸市街の大半に及びました。一説に10万人に及ぶ焼死者を出したといいます。
 焼死者は,本所の辺りに大きな穴を掘って埋葬しました。のち,その地に,焼死者供養のために建てられたのが,回向院(えこういん)です。

伊達騒動。原田甲斐,伊達安芸を斬殺

 伊達騒動(だてそうどう)というのは,江戸時代前期の寛文11年(1671年),奥州仙台藩の伊達家で起こった「お家騒動」のことです。
 江戸時代の中期にはすでに,歌舞伎狂言の「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」となって人口に膾炙(かいしゃ)し,多くの人たちに知られていました。現代になってからは,山本周五郎が「樅(もみ)の木は残った」という小説に仕立て,さらに1970年には同作がNHK大河ドラマとなったことによって,ドラマとしても小説としても大ヒットしたのです。
 では,事件の経緯を見てみましょう。
 仙台藩主伊達綱宗(つなむね)が幕府から隠居を命ぜられたのは,万治3年(1660年)のことでした。江戸小石川堀の普請に際して不行跡があったというのです。100万石の加賀前田家に次ぐ日本で二番目の大藩である仙台藩伊達家62万を継いだのは,何と僅か2歳の幼児亀千代(のちの綱村)でした。しかし2歳の幼児に藩政を司ることなど,できるはずはありません。そこで叔父の伊達兵部少輔宗勝(だてひょうぶしょうゆうむねかつ)と,庶兄(しょけい)の田村右京宗良が,それぞれ3万石を分知されて後見人となり,また幕府の国目付が毎年伊達家に派遣されて,藩政が行なわれたのです。
 当初,権勢をふるっていたのは,伊達家の奉行奥山大学常辰(つねとき)ですが,伊達兵部は寛文3年(1663年),奥山大学を罷免してしまいます。そして,幕府老中の酒井忠清と姻戚関係を結び,奉行の原田甲斐(はらだかい)や側近たちを重用(ちょうよう)して,反対派を大弾圧するのです。17名が斬罪切腹となり,120名が処分を受けました。
 その後,仙台藩伊達家のごたごたは,まだまだ続きます。寛文6年には亀千代毒殺未遂のうわさが立ち,医師の河野道円父子が殺害され,寛文8年にも似たような事件が起きます。これらの事件の背景には,伊達兵部らの陰謀があるのではないかという,うわさが立ち,兵部への非難が高まります。またそのころ,伊達一門の伊達安芸宗重と同じく宗倫が,知行地をめぐる境界線争いを続け,伊達兵部の裁定に不満を持つ者たちが,何と幕府に上訴するのです。
 寛文11年,大老酒井忠清のもとで審議が開始されることになりました。ところが,同年3月27日,酒井忠清邸での審議のさなかに,兵部派の敗北をさとった原田甲斐が,やにわに伊達安芸を斬殺し,乱闘のなかで自らも斬死してしまうのです。兵部と田村右京は,当然のことですが,任を解かれ配流・閉門という処分を受けました。
 以上が事件のあらましですが,この伊達家のお家騒動は,実録本や講談,歌舞伎,人形浄瑠璃などに広く取り上げられることになります。それらの作品群を総称して「伊達騒動物」といいます。それらのなかで,現代につづく名作が「伽羅先代萩」というわけです。