ちはやぶる日本史

序文

プロローグ

 私たちは過去から未来に向かって,今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく,よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど,未来を考えるためには,今を知ることが必要です。そして,今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は,先人たちが営々と築いてきた,そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
 「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
です。
 それでは,今を知るために,そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ,これから語ろうとするのは,小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という,おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。

高橋ちはや

著者紹介

高橋千劔破(たかはし・ちはや)
 1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後,人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長,同社取締役編集局長を経て,執筆活動に入る。 2001年,『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫), 『江戸の旅人』(集英社文庫),『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ理事。

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邪馬台国の謎

 邪馬台国は,いったい日本のどこにあったのでしょうか。古代史上の最大の謎です。3世紀初頭の倭(わ)の国に君臨し,30もの国々を従えていたというヤマタイ国は,卑弥呼という女王が統治する強大な国でした。7万余戸もあったといい,1戸あたり5人とすれば,35万人もの人口をもつ大国です。中国大陸の魏(ぎ)の国に使者を送り,魏からも使者が来たほどで,ヒミコは魏の皇帝から「親魏倭王」の金印を授けられたとされます。ヒミコが死ぬと,巨大な墓が築かれたと「魏志倭人伝」は記しています。そのような大国の遺跡が,なぜ発見されないのでしょうか。
 ヤマタイ国について記した文献は,「魏志倭人伝」が唯一のものです。正しくは,「三国志」のうちの『魏書』の中に出てくる約2000字の「東夷伝倭人条」で,俗称が「魏志倭人伝」です。ヤマタイ国は,古代日本の文献には一切登場しません。『古事記』や『日本書紀』ができる約500年前にあったとされる幻の国ですから,記録がないのは当然です。
 そのヤマタイ国が,なぜかくも人気が高いのかといえば,「魏志倭人伝」に,3世紀はじめころの日本(西日本)を指すと思われる倭国の様子が,それなりのリアリティーをもって記され,強大な女王国の存在を彷彿とさせるものがあるからです。とはいえ,ヒミコについてもヤマタイ国の所在地についても,皆目不明です。そのことがかえって想像力を刺激し,ロマンを育んだといえます。ヤマタイ国の謎解きは,すでに奈良時代から始められています。それから千数百年,ことに近代以降は研究が盛んで,現代に至ってまさに諸説紛紛・百花繚乱です。しかし,謎はまったく解明されていません。
 所在推定地は,大きく北九州説と大和説に分かれますが,他にも沖縄や中国・四国・中部・関東・東北さらには朝鮮半島などの海外説等々,100を超える説があります。ヤマタイ国の発見は,もはや「魏志倭人伝」をどのように解釈しても不可能です。あらゆる可能性は,研究され尽くされたといっていいでしょう。決め手は考古学的発見だけです。ヒミコの墓やヤマタイ国の遺跡と証明される発掘が不可欠です。「親魏倭王印」の発見,あるいは魏との関係を記す文字遺物の発掘など。その可能性は極めて低いといわざるをえませんが,ヤマタイ国の存在が全否定されない限り,ゼロではありません。これからも,「ついに邪馬台国発見!」とか「卑弥呼の墓か!」などというニュースが,何年かに一度は登場し続けるに違いありません。その都度,日本人の多くは,ワクワク・ドキドキすることになります。さて今年は……。

聖徳太子の謎とキリスト

 古代史の人物で聖徳太子ほど,多くの人々に親しまれ尊敬され続けてきた人物はいません。偉大な政治家であり,思想家であり,宗教家であり,聖人と称えられてきました。日本における最高額の紙幣一万円札の顔は,長らく聖徳太子でした。
 ですが,聖徳太子の実像は,濃い霧の彼方にあって,ほとんど判っていません。そのため架空の人物説が出されたほどです。
 太子には多くの名がありますが,すべて称号で,生前の実名は不明です。「聖徳太子」の名は,現存する最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』の序文に見えるのが最初で,『日本書紀』を初め,それまでのどの文献にも「聖徳」の名は登場しません。『懐風藻』は,太子が没して130年近くも経ってから出された書です。
 太子の呼称のひとつに「厩戸皇子(うまやどのみこ)」というのがあります。『日本書紀』には,この名にちなむ次のような話が載せられています。
 太子誕生の日,母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ=用明天皇の皇后)が,宮中をめぐって各官司を視察し,馬官(うまのつかさ)まで来たとき,厩(うまや)の戸にぶつかって急に産気づき,その場で太子を産み落とした,というのです。
 何ともドジな話です。というより,皇妃が臨月のお腹をかかえて宮中を歩きまわり,厩舎の戸にぶつかったなどというのは,いかにも不自然です。あえて『日本書紀』が記したのには,意味があるにちがいありません。
 じつは,おそらくこの話は,イエス・キリストの生誕伝説に基づくものなのです。
 キリストは,ベツレヘムに行った母マリアによって,村の入り口の厩で産み落とされました。そして苦難の宗教活動ののち,非業の死を遂げますが,やがて偉大な救世主としてよみがえります。
 太子が生まれたのは西暦574年ごろ,没したのは622年です。キリストの誕生は西暦元年ですから,6世紀以上を経ています。しかし,西暦600年代の前半には,すでに景教(キリスト教)が唐の都である長安(いまの西安)に伝えられていました。
 『日本書紀』の編纂が終ったのは720年ですが,その間に遣唐使たちがキリスト伝説を持ち帰り,尊い話として太子誕生説話が作られた,と考えればつじつまが合うのです。

海を渡ってきた日本の神話

 『古事記』と『日本書紀』(「記紀」)は,奈良時代の8世紀に編纂された日本最古の歴史書です。「記」の方がやや古く,物語性に富み,倭語(やまとことば)すなわち日本語で記されています。「紀」は,日本の国家(大和朝廷)が編んだ最初の国史で,中国の史書にならい漢文体で記されています。内容は似通っていますが,違いもあります。
 「記紀」に記された,神々とその子孫の,天皇家の遥かなる先祖と初期の天皇についての記述は,記紀神話といわれています。すなわち歴史的な記録に基づくものではなく,遠い古代から語り伝えられてきた「神話」というわけです。いつごろ成立したのか,はっきりしませんが,ギリシア神話や旧約聖書,東南アジアの古い伝承などと同じ話がいくつもあって,興味が尽きません。
 たとえば,スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する話は,ギリシア神話のアンドロメダの話とほとんど同じです。アンドロメダ神話は,怪物の人身御供にされたエチオピアの王女アンドロメダを,勇士ペルセウスが救う話です。ペルセウスが退治した怪物は八つの頭を持つ巨大な海竜でした。やがてペルセウスはアンドロメダを妻とし,やがて天に昇って星座になりました。スサノオは,天から下って出雲国のヒの川の上流で,八つの頭を持つ大蛇を退治してクシナダヒメを救い,彼女を妻として出雲の国をつくります……。
 「記紀」神話のひとつアメノワカヒコの話は,『旧約聖書』創世記のニムロッド説話と同型です。神を信じないニムロッドは,天上の神に向って矢を放ち,神の投げ返した矢に当たって死にます。アメノワカヒコも同様です。高天原から地上に遣わされたワカヒコは,使命を忘れて妻をめとり,天からの使者の雉(キジ)を弓矢で射殺してしまい,天上まで飛んで行ったその矢を天上の神が投げ返し,ワカヒコは死にます。
 因幡(いなば)の白兎の話もよく知られています。ワニをだまして赤裸に皮をむかれたシロウサギを,大国様(ダイコクサマ・オオクニヌシ)が助ける話です。陸上の動物が水中の動物をだまして川を渡り,報復される話は,インドネシアや東インド諸島に広く分布しています。
 まだ「記紀」には,外国と共通の話がいくつもあります。偶然の一致もあるかも知れませんが,はるか太古から,地球上を人が移動し,文化が行き交っていた証拠です。

古代からあった国々

 日本は明治時代のはじめまで,蝦夷地(北海道)と琉球(沖縄)を除き,73ケ国に区分されていました。関東地方ですと,武蔵国,相模国,上野国,下野国,常陸国,下総国,上総国,安房国のいわゆる関八州です。州(洲)は,訓で「ス」「シマ」「クニ」などと読みます。もとは川の中にある島のことですが,行政上の一区域の呼称となりました。漢の武帝は天下を12の州に分け,その下に郡を置いています。
 古代のわが国では中国にならって,日本を多くの国に分けました。古代日本の場合「国」は「州」と同義です。奈良時代が始まったとき,日本は五畿(畿内)七道という大きな地域区分のもとで,68ケ国に分類されていました。「畿」というのは,古代中国では天子が直接支配する王都を中心とした千里四方の土地,また王都そのものをいいますが,日本の場合は,大和,山城(山背),河内,和泉,摂津の五国を指します。今でいう,奈良,京都,大阪が畿内で,日本の中心というわけです。
 七道というのは西から,西海道,南海道,山陽道,山陰道,東海道,北陸道,東山道。このうち西海道は9つの州(くに)に分類され,のちに九州と呼ばれます。南海道は4つの国から成る四国と淡路・紀伊の6ヶ国をいいます。東山道は,近江(滋賀県)から日本列島の中央山地である脊梁(せきりょう)山脈に沿って本州の最北端までの広大な地域ですが,関八州以北は,陸奥国と出羽国の2国だけでした。のちに羽前,羽後,陸奥,陸中,陸前,岩代,磐城の国々に分かれますが,古代における東北の地は,最後まで「畿」の勢力が及ばなかった地域ということになります。
 ところで,これらの国々が,中央政府に属する行政区域のクニであった時代は,古代で終わりをつげます。古代,それぞれの国には,中央から地方長官である「守(かみ)」が派遣されましたが,中世以後の守は形式的な官職名になります。それでも旧国名は生き続け,武蔵守,信濃守などという国守名も,武家の肩書きとして生き続けることになります。
 いや現代に至っても,旧国名は地名や学校名や商品名など様々な分野で生き続けています。長野県人や山梨出身の経済人というより,信州人や甲州商人といった方が,今でも判り易い。そういった例は数多くあります。「国」とは何か? 改めて一考の余地がありそうです。ところで,今から千数百年前にはすでに,旧国名のほとんどが成立していたことを,ご存じでしたか?

日本語のタイムカプセル

 日本語が,いつどのようにして成立したのか定かではありませんが,縄文時代に遡ることはまちがいありません。縄文時代は1万数千年つづきましたから,日本語の起源は,少なくとも1万年以上前ということになります。縄文人は,縄文式土器をつくり,集落を営み,日本列島の他地域に住む縄文人たちと交易を行なっていたことが判っています。
 青森県の三内丸山遺跡は,今から約5500年前から4000年前ぐらいまでの間,縄文人たちが生活した大遺跡ですが,厖大(ぼうだい)な遺物が出土し,巨大な木造建造物や墓制があったことが判明しています。文字はありませんでしたが,言葉があったことはまちがいありません。彼らが話していた言葉が,今日の日本語の源流の一つであることは,おそらく確かです。
 やがて紀元前300年(あるいはも少し前)ごろから弥生時代となりますが,縄文人と弥生人が入れ替わったわけではありません。両民族が同化しつつ共通の言語ができ上がり,やがて古代日本におけるグローバルな言語である倭語(やまとことば)が成立したものと思われます。
 弥生時代が始まってから千年の時を経て,すなわち奈良時代始めの8世紀初頭,私たちの祖先はすでに厖大な語彙の日本語を成立させていました。
 8世紀の前期に成立した『古事記』や,中期以降に成立した『万葉集』によって,私たちはそれ以前の日本語に触れることができます。そして驚くべきことに,現在私たちが使っている日本語の語彙の多くが,当時すでに使われていたことを知ります。
 じつは『古事記』と『万葉集』は,ヤマトコトバを後世に伝えるためのタイムカプセルなのです。『古事記』の序文は漢文で書かれていますが,本文はほとんどすべてがヤマトコトバすなわち当時の日本語で記されています。漢字は日本語を表記するための記号であって,漢語が入り混じっているわけではありません。『万葉集』には4516首の歌が収録されていますが,漢語を混えた歌は16首にすぎません。4500首が倭歌すなわちヤマトコトバウタです。つまり『古事記』と『万葉集』は,明らかに,当時の日本語を,物語や歌に託して,後世に伝える意図で作られたものといえるのです。ぜひ,ひもといてみてください。