ちはやぶる日本史

序文

プロローグ

 私たちは過去から未来に向かって,今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく,よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど,未来を考えるためには,今を知ることが必要です。そして,今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は,先人たちが営々と築いてきた,そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
 「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
です。
 それでは,今を知るために,そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ,これから語ろうとするのは,小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という,おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。

高橋ちはや

著者紹介

高橋千劔破(たかはし・ちはや)
 1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後,人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長,同社取締役編集局長を経て,執筆活動に入る。 2001年,『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫), 『江戸の旅人』(集英社文庫),『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ理事。

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古代からあった国々

 日本は明治時代のはじめまで,蝦夷地(北海道)と琉球(沖縄)を除き,73ケ国に区分されていました。関東地方ですと,武蔵国,相模国,上野国,下野国,常陸国,下総国,上総国,安房国のいわゆる関八州です。州(洲)は,訓で「ス」「シマ」「クニ」などと読みます。もとは川の中にある島のことですが,行政上の一区域の呼称となりました。漢の武帝は天下を12の州に分け,その下に郡を置いています。
 古代のわが国では中国にならって,日本を多くの国に分けました。古代日本の場合「国」は「州」と同義です。奈良時代が始まったとき,日本は五畿(畿内)七道という大きな地域区分のもとで,68ケ国に分類されていました。「畿」というのは,古代中国では天子が直接支配する王都を中心とした千里四方の土地,また王都そのものをいいますが,日本の場合は,大和,山城(山背),河内,和泉,摂津の五国を指します。今でいう,奈良,京都,大阪が畿内で,日本の中心というわけです。
 七道というのは西から,西海道,南海道,山陽道,山陰道,東海道,北陸道,東山道。このうち西海道は9つの州(くに)に分類され,のちに九州と呼ばれます。南海道は4つの国から成る四国と淡路・紀伊の6ヶ国をいいます。東山道は,近江(滋賀県)から日本列島の中央山地である脊梁(せきりょう)山脈に沿って本州の最北端までの広大な地域ですが,関八州以北は,陸奥国と出羽国の2国だけでした。のちに羽前,羽後,陸奥,陸中,陸前,岩代,磐城の国々に分かれますが,古代における東北の地は,最後まで「畿」の勢力が及ばなかった地域ということになります。
 ところで,これらの国々が,中央政府に属する行政区域のクニであった時代は,古代で終わりをつげます。古代,それぞれの国には,中央から地方長官である「守(かみ)」が派遣されましたが,中世以後の守は形式的な官職名になります。それでも旧国名は生き続け,武蔵守,信濃守などという国守名も,武家の肩書きとして生き続けることになります。
 いや現代に至っても,旧国名は地名や学校名や商品名など様々な分野で生き続けています。長野県人や山梨出身の経済人というより,信州人や甲州商人といった方が,今でも判り易い。そういった例は数多くあります。「国」とは何か? 改めて一考の余地がありそうです。ところで,今から千数百年前にはすでに,旧国名のほとんどが成立していたことを,ご存じでしたか?

日本語のタイムカプセル

 日本語が,いつどのようにして成立したのか定かではありませんが,縄文時代に遡ることはまちがいありません。縄文時代は1万数千年つづきましたから,日本語の起源は,少なくとも1万年以上前ということになります。縄文人は,縄文式土器をつくり,集落を営み,日本列島の他地域に住む縄文人たちと交易を行なっていたことが判っています。
 青森県の三内丸山遺跡は,今から約5500年前から4000年前ぐらいまでの間,縄文人たちが生活した大遺跡ですが,厖大(ぼうだい)な遺物が出土し,巨大な木造建造物や墓制があったことが判明しています。文字はありませんでしたが,言葉があったことはまちがいありません。彼らが話していた言葉が,今日の日本語の源流の一つであることは,おそらく確かです。
 やがて紀元前300年(あるいはも少し前)ごろから弥生時代となりますが,縄文人と弥生人が入れ替わったわけではありません。両民族が同化しつつ共通の言語ができ上がり,やがて古代日本におけるグローバルな言語である倭語(やまとことば)が成立したものと思われます。
 弥生時代が始まってから千年の時を経て,すなわち奈良時代始めの8世紀初頭,私たちの祖先はすでに厖大な語彙の日本語を成立させていました。
 8世紀の前期に成立した『古事記』や,中期以降に成立した『万葉集』によって,私たちはそれ以前の日本語に触れることができます。そして驚くべきことに,現在私たちが使っている日本語の語彙の多くが,当時すでに使われていたことを知ります。
 じつは『古事記』と『万葉集』は,ヤマトコトバを後世に伝えるためのタイムカプセルなのです。『古事記』の序文は漢文で書かれていますが,本文はほとんどすべてがヤマトコトバすなわち当時の日本語で記されています。漢字は日本語を表記するための記号であって,漢語が入り混じっているわけではありません。『万葉集』には4516首の歌が収録されていますが,漢語を混えた歌は16首にすぎません。4500首が倭歌すなわちヤマトコトバウタです。つまり『古事記』と『万葉集』は,明らかに,当時の日本語を,物語や歌に託して,後世に伝える意図で作られたものといえるのです。ぜひ,ひもといてみてください。